新聞社が競って兵士慰問団派遣 中国大陸や南方へ
日記で読む昭和史(165)

朝日新聞が週末の夕刊で連載している「写真館─Since1904」。同紙が初めて写真を紙面に掲載したのが1904(明治37)年。それからの写真を新旧取り混ぜてテーマごとに配置して、1㌻特集にした構成である。最初は土曜日夕刊で扱われていたが、土曜夕刊が廃止された結果、今は金曜日夕刊となっている。

2025年8月22日では「わらわし隊」を取り上げた。わらわし隊とは、朝日新聞が吉本興業と組んで「戦地慰問団」を結成し、1938年から3度にわたり、日中戦争で中国に送られた兵士を慰問して回った。日本から中国本土への渡洋爆撃で知られた「荒鷲隊」をもじって付けられたという。

ノンフィクション作家・早坂隆の『戦時演芸慰問団「わらわし隊」の記録』によると、最初は38年1月、落語家・柳家金語楼が団長格となり、漫才のエンタツ・アチャコ(横山エンタツ、花菱アチャコ)、ミスワカナ・玉松一郎、歌手の石田一松(戦後衆院議員)、三味線漫談の柳谷三亀松など吉本興業に所属し、人気を博していた芸人が参加し、分散して日本軍が駐留している中国各地を回った。金語楼は旅順、天津、北京を訪れたという。

朝日が先べんきって

新聞社が戦地に慰問団を派遣した最初は、この「わらわし隊」であった。新聞各紙は1931年の満州事変以降、これを引き起こした関東軍・陸軍に同調・支持し、日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」樹立までをもろ手を挙げて賛意を示した。

慰問団の派遣は、その延長であろう。販売政策上の理由も当然あった。朝日は紙面で「わらわし隊」の一挙手一投足を事細かく報じた。一行は皇居遥拝し、陸軍、海軍両省にあいさつ、日比谷公会堂で朝日主催の「北京、上海、皇軍慰問演芸の夕」に臨み、それぞれの持ちネタを披露したという。大阪でも同じようなイベントを開いた。

「写真館」の記事で気になったのは、中国への侵攻といった背景の説明が全くなく、慰問団が「敵前わずか360㍍」の野営地まで足を運び、兵士たちに「得意の笑慰弾を見舞った」と書き、芸人たちをたたえていることだけだ。

「写真館」で、一番大きな写真は原野の一段高いところで夫婦が漫才をしているのと、それを聞いている兵士を撮ったものだ。その写真説明の中で「選ばれた部隊の兵士らが『久しぶりに笑えるぞ』と駆けつけた」とある。慰問を送り、逐一報道する新聞社、芸人を提供する芸能プロダクション。だが、中国大陸でのことは、全部陸軍が仕切っていたようである。

藤山一郎2度南方へ

朝日に対抗するかのように、東京日日新聞(毎日新聞)は専属歌手を多数抱えていたレコード会社・コロムビアと提携し、「皇軍慰問芸術団」を上海、南京に派遣した。いずれも歌手の構成で、ミス・コロムビア、伊藤久男、渡辺はま子、赤坂小梅といった当時一流の顔触れ。これに作曲家の服部良一も加わっていた。

戦前は「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、戦後も「青い山脈」「長崎の鐘」など藤山一郎の歌は、日本人なら誰でも口ずさんだように思う。その『藤山一郎自伝─歌声よひびけ南の空に』。藤山は読売新聞の依頼を受け「よみうり慰問団」として南方慰問団を結成する。

「昭和十八年になると、こうした活動(将兵慰問)に一歩遅れを取っていた読売新聞が海軍の要請を受け、慰問団の企画を立てた」「この団長になった高橋さんから『引き受けてくれませんか』と言われ、即座に了承した」(『自伝』)。その理由をこう記している。

「私は当時、南方に、強い憧れを抱いていた」「戦地では将兵たちが生命を賭けて戦っている。(略)私は内地にいて、暢気(のんき)に歌を歌っているのが、何か申しわけないように思えてならなかった」

組織していた「藤山新世紀楽団」からトランペット、ピアノ、アコーディオン、ギターなどの奏者を選ぶとともに、歌手の女性、浪曲師、講談家、奇術師など約20人で編成した。

横浜から「鎌倉丸」で出港し玄界灘に進むと、米軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けた。「鎌倉丸」は何とかこれをかわし、パリックババン(インドネシア)に到着した。藤山は「戦局がこれほどまでに緊迫していることに、慄然(りつぜん)とした」

ただし、インドネシアを拠点にした慰問は順調だった。藤山のヒット曲「東京ラプソディー」の演奏になると、東京出身らしい水兵の中には、藤山が「花咲き花散る宵も 銀座の柳の下でー」と心を込めて歌うと、じっとこの歌謡を聴きながら、目に涙を溜(ため)ていたという。藤山は「慰問団に加わってよかった」と記している。

『夢声戦争日記』によると、日本放送協会(現NHK)が組織した慰問団で南方へ行く。名目は慰安だが、「日本占領地からラジオでお馴染(なじ)みのムセイがお馴染みの口調で現地報告」をする。夢声はそう意気込んで南方行を快諾する。だが、日記を見る限りそうした放送をしたという記述はない。

藤山の慰問団は好評だったからだろう。今度は海軍南方政務部から「また南方に」という直接要請がきた。交渉の結果、藤山を海軍嘱託「奏任官五等」(海軍少佐待遇)、給与は年俸1800円と決まった。

「海軍の給与も結構いいな」と思ったら、年俸だった。当時の藤山の出演料は一日百円ぐらいだった。日本が初めて襲われた1942年4月、ドーリットル空襲の日、藤山夫妻は静岡県・伊東の川奈でゴルフをしていた。相当のセレブだった。

楽士も半減した藤山慰問団では、トラックの荷台で藤山自身がアコーディオンで演奏しながら歌うのがしばしばだった。敗戦で藤山は収容所を転々とし、46年ようやく帰国できた。

藤山によると、「多くの芸能人は慰問に出ることを嫌がっていた」という。給与が安い上、陸軍は「その本人の社会的地位は保証せず、また万一戦死しても軍属の身分以上の待遇はできない」と決めていた。慰問団は人間扱いしていなかったという。

「軍人、軍馬、軍用犬、軍鳩、その次に扱われ、死んだらやっと軍属あつかいになるのである」。藤山は記録する。慰問で戦地に赴いた芸能人には、敬礼をしなかったという理由で兵隊から殴られた者もいた。地元住民との接触や交流も陸軍では厳禁であった。

「その点、海軍は陸軍にくらべかなりよかった」(『藤山一郎自伝』)。

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