紀元二千六百年結局式典だけに
五輪、万博は取りやめ
日記で読む昭和史(161)
田中角栄との長い「角福戦争」の末、福田赳夫が政権を手にしたのは1976(昭和51)年12月24日のことだった。私は現場を駆け回る記者だったが、驚き、かつ非常な違和感を覚えたことがあった。福田が内閣のキャッチフレーズとして「さあ、働こう内閣だ」と宣言したことであった。
あれ、どこかで聞いたことがある言葉だと思い、調べてみたらすぐに分かった。戦前の40年11月10日、近衛文麿内閣が「紀元二千六百年記念式典」を実施。それが終わると、近衛が結成し、総裁を務めていた大政翼賛会が「祝ひ終わった、さあ働かう」とキャンペーンをはじめた、その言葉そのものであった。
福田はすでに大蔵省(現財務省)の若手官僚だったから、この言葉が使われたいきさつを知らないはずはなかった。自らや閣僚などが「働くぞ」ということなら分からないでもなかったが、国民に対し「さあ働け」というニュアンスも感じられた。
当時の経済状況はといえば、2度にわたった石油ショックが尾を引きパッとしない状況だったが、それが労働問題に起因していたわけではなかった。
三木武夫前内閣で、国鉄(現JR)の労働組合であった国労などが公労協(公共企業体労働組合協議会)を結成し、ストライキ権を要求して1週間以上のストライキを実施した。
「スト権スト」と呼ばれたものだが、国民の支持は得られずに敗北、当面、労働問題が経済の主要テーマになることはなかった。高市早苗首相は「働いて、働いて、働いて、働いて、働いて参ります」と5回も繰り返した。自分のことならいいとして、労働時間の規制を緩和する方向を示している。経営側の長年の要請だが、福田赳夫よりもっと露骨ではないか。
帝大教授が隊列組んで
「紀元二千六百年記念式典」は、本来、各種記念行事を締めくくるものとして計画されていた。「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望の秘書であった原田熊雄(貴族院議員)の『西園寺公と政局』。西園寺が90歳で死去する約1カ月前、原田は静岡県・興津の別荘に西園寺を訪ね「紀元二千六百年の式典は非常に荘厳だった」ことなどを報告した。原田が語った式典の様子─。
「宮城前に集まって両陛下の行幸啓を仰いだ。自分もその式典に参加した。天候はよいし、非常な盛儀で、比較的近く両陛下を拝し、現在の経緯を考えながら龍顔を拝した時には、まことに感激に堪えなかった」
東京帝国大法学部の教授(政治学)である矢部貞治は「文部省に集まり先着順で列を作って、式場に入る」。矢部は二日酔いのうえ長時間帽子を被らず座っていたので脳貧血を起こし、救護班の手当を受けたという。「それから文部省に行き、二千六百年記念章を貰ひ帰宅」。(矢部貞治日記)
歌人で精神科の医師の斎藤茂吉は、報知新聞社に依頼されていた奉祝歌5首を送り(8日)、式典に列席する。「天気晴朗」「光栄感激」とし、午後から浅草に出掛けたという。「祝賀気分ヲ見ンガタメナリ」(『斎藤茂吉日記』)
斎藤は何をみてどう感じたかは書いていないが、果たして盛り上がっていたのだろうか。政府は「紀元二千六百年」の歌をつくり喧伝した。
「金鵄(きんし)輝く日本の 栄(はえ)ある光身に受けて 今こそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年 ああ一億の胸はなる」
だが、すぐに国民の切実な声をうたった替え歌がひそかにはやり出した。たばこ増税がはじまった。国家財政が苦しくなると、たばこと酒の税金に手を付けるのは、当時からの常とう手段であった。金鵄は「ゴールデンバット」という名で国民に最も身近なたばこだったが、「敵性語」だとして名前が変わった。値段もそれまで10銭だったのが一気に5銭も高くなった。
「金鵄上がって十五銭 栄えある光三十銭はるかに仰ぐ鵬翼は 二十五銭になりました ああ一億の民は泣く」
この替え歌でも分かる通り、盛り上がった空気は、国民の間にあまりなかったのではないか。
神話である日本書紀によると、初代の神武天皇が即位したのは紀元前660年2月11日。40年の2月11日の紀元節がその日に当たるとした。
それに合わせ、第5回冬季オリンピック大会を2月3日から12日まで札幌市で開く。そして、9月21日から10月6日の間、東京で第12回夏季オリンピックを開催する。この時代、夏季と冬季オリンピックが同一国で開かれても、特に問題にされなかった。日程は決まらなかったが、万国博覧会を東京の晴海などの埋め立て地で開く予定だった。
オリンピックについていえば、純粋なスポーツイベントとして誘致に携わった人と、40年の記念の年に合わせて「国威発揚」の手段としたい勢力が合致して誘致に当たった。後者の人たちは、36年ナチスドイツのヒトラーが行ったベルリン・オリンピックに触発されたという。
大会の記録は『民族の祭典』というタイトルで映画化されたが、初めて実施された「聖火リレー」、反ユダヤ主義を覆い隠した演出、ドイツ人のほとんどを占めているアーリア人の賞賛─プロパガンダ一色であった。
オリンピックを開くには、メイン競技場の建設、各種競技場、それへのアクセス、選手や海外から来る観客の宿泊設備など膨大な整備が必要になる。東京はもとより、周辺にもそんな施設はなく、一から造り上げなければならなかった。
陸軍に返上論
莫大な資金と物資の必要に追われた。これだけでも大変なのに、1937年7月、日中戦争が勃発する。近衛内閣は不拡大方針だったが、停戦どころか戦線は拡大する一方であった。
戦争をしながら「平和の祭典」といわれるオリンピックを開く。そんな矛盾が露呈すると同時に、日本は戦費とオリンピック準備費用という問題に直面する。
軍部、特に中国本土に大規模に将兵を送り出している陸軍は当然のように、費用をオリンピックにかけるのには反対した。38年7月、日本はオリンピック返上を決める。
これで札幌の冬季、東京の夏季オリンピックともなくなった。東京万博も有力国のイギリスやフランスが不参加を表明し、これに追随する国が相次ぎ、開けるめどが立たないまま延期となった。(文中敬称略)