わらにすがった近衛特使構想
大乗り気だった松本重治
日記で読む昭和史(162)
国会議事堂の1階の衆院側に「中央食堂」がある。ちなみに国会の中には、衆院、参院にそれぞれ「議員食堂」があり、参院の地下1階には、確かそば屋もあったはずだ。どの食堂も、国会に入れる資格があれば、誰でも自由に利用することができることになっている。
最もにぎわっていたのは中央食堂だった。国会で働く職員、それにわれわれ記者なども利用した。議員食堂との対比だろう、記者の間では「人民食堂」と呼ばれていた。食堂は広く、比較的安く、メニューも豊富だった。
利用する議員も多かった。その一人に国会開会中の中曽根康弘・自民党幹事長(後の首相)がいた。幹事長番の記者であったわたしたち数人がついて行き、一緒に食事をすることが多かった。そんなあるとき、幹事長が「松本重治さんはどうして共同通信社の社長になれなかったのですか」と私に聞いた。
松本の『上海時代─ジャーナリストの回想』を読んでのことだった。新聞聯合の上海支局長、同盟通信が誕生すると上海支社長を務めた。この間、東北軍の首領・張学良が、国民党を率い軍事部門を掌握していた蒋介石を逮捕・軟禁した「西安事件」が起こる。
1936(昭和11)年12月のことで、松本はこれをキャッチし、世界的な特ダネを発した。張学良は蒋介石に共産党と連携して日本の侵略に対処すべきだと説き、蒋介石もこれを受け入れた。「第2次国共合作」となった。
このような情勢下で、松本は「回想」で日中戦争を終結させ平和をもたらすため、多数の中国の要人といかにして接触し、どんな話をしたのかなど詳しく記述している。これには二つの側面があったように思う。主は日中関係であるが、それと同時に近衛文麿首相との関係だ。昭和史の資料を読むと、近衛絡みの話には、しばしば松本が登場する。
日中戦争は近衛内閣発足直後から始まった。それが軍部の力で拡大、近衛も「爾後国民政府を対手にせず」との声明を発表、これをやや修正・軟化する声明を何度も出したが、効果なく戦争は泥沼化していった。
冷静だった西園寺
この間、近衛は「同盟の松本」が上海の銀行家周作民に会うなどして、蒋介石との話し合いのルートづくりを模索した。南京には日本軍部により汪兆銘の「国民政府」が作られたが、中国を支配しているのは蒋介石であるという認識だ。
最後の元老・西園寺公望は「蒋介石に関する限り、いまなんとしたって日本の言ふことなんかきくもんか」(『西園寺公と政局』40年11月19日)と冷静にみていた。その通りであった。
特使は拒否され続ける
沖縄が陥落して太平洋戦争が断末魔近くになった45年7月、東郷茂徳外相は、ソ連に特使を派遣して、米英との終戦交渉をしようと考えた。そして、特使には近衛元首相が適任だとした。7月12日、天皇は近衛を呼び、特使となることを命じた。
この席で近衛は「非常手段を決意し、会見地(モスクワ)より陛下へ決定事項を直接電報して御裁可を仰ぎ調印」したいと申し上げ、了承を得たという。松本の著書『昭和史への一証言』。
「天皇さまに頼まれたから今度、モスクワに行って和平工作をやってくる。ロシア側が受け入れるかどうかわからないけれども、行くよりしょうがない。君もいっしょに行ってくれないか」。近衛は松本にも、直接、天皇の裁可を得る構想を説明したという。
松本はすぐに承知し、「和平工作をソ連だけを相手にしてやってもだめなので、イギリスにも働きかけなければならない。ちょうど私が上海で仲がよかったイギリス大使のクラーク・カーがモスクワのイギリス大使になっていました。イギリスにわたりをつけるのが私の任務だったのです。カーを通じてイギリスを動かすということは近衛さん自身が考えたのです」。
松本は同盟通信の常務理事ではあったが、報道・広報担当のような役割で随行するわけではなかった。ほかの随員も外務、陸軍、海軍などから加わる準備が進んだ。日本側はこの陣容でモスクワを訪れたいと申し入れた。だが、トルーマン米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連共産党書記長によるポツダム会談前で忙しく会えない、と断る。やっと返事はきたが、「どういう使命で来るのか。具体的に聴きたい」という。
日本では無条件降伏は避けたいという以外、何も具体的に決まっていなかった。ソ連はこの年の2月、ヤルタ会談で、ドイツ降伏後90日以降に対日参戦することを米英に密約していた。4月5日、日ソ中立条約を延長しないと通告したのも、その流れだった。
だが、日本はヤルタ密約も含め何も察知していなかった。他方でスターリンは日本の動きをトルーマンとチャーチルに伝えた。初めから勝負にならない外交である。
ポツダム会談は7月26日発表されスターリン一行はモスクワに戻って来た。日本側は面会を催促したが、やっと会えた8月7日、「明日からソ連は日本と交戦状態に入る」というものだった。近衛特使は無視・拒否されたのである。
最後に中曽根幹事長の質問に、わたしは答える知識がなかった。今のように、戦前の昭和にそう関心があったわけではなかった。
「確かあの人は公職追放されていたはずです」。そう述べる以外なかった。
松本は近衛のブレーン的な役割を果たしていた。大政翼賛会の組織案を依頼されていた東京帝国大学の矢部貞治助教授(政治学)は40年9月10日、翼賛会と衆院選での候補者を指名する案について、近衛の荻外荘に行き案を説明した。「近衛さんが出て来て、間もなく松本重治君も」来たという。近衛が呼んだのだろう。
矢部は何度か松本と会っているが、あまり好きではなかったようだ。「松本君は例の如き拵らへた態度で偉さうに豪放らしく物を言ふ。話は面白いが、才子軽佻の気をどうしても脱し切れぬ」
ただ、松本、近衛との関係は切れない。43年3月12日、松本が矢部を訪れ、編集局長を辞め対外宣伝をやることになった、ついては思想戦の委員になってほしいと要請する。矢部はすぐに了承する。同盟が持つ情報が魅力だった。