まず養子に入り、そのまま結婚 貧乏だった斎藤茂吉、矢部貞治
日記で読む昭和史(163)

戦後、ほぼ死語となった言葉に「書生」というのがある。篤志家が、主に出身地の若者を自宅に住み込ませて家事や雑事に当たらせ、その間に、高等教育機関に通わせる。若者は学費などを負担しなくともよい。一種の育英制度であった。

アララギ派の歌人として知られ、精神科の医師でもあった斎藤茂吉。山形県・金瓶村(現上山市)の農家・守谷伝衛門の三男として生まれた。守谷家は裕福ではなく、義務教育である当時の尋常高等小学校に通わせるのが限度であった。

「守谷茂吉」は優秀な少年だった。茂吉の長男で精神科医・随筆家の斎藤茂太、次男で作家の北杜夫などが書き残したところによると、同じ金瓶村出身で東京・浅草で病院を経営し、衆院議員にも当選したことがある斎藤紀一が、手を差し伸べる。

斎藤家の子どもは女性だけで、跡継ぎの男の子がいなかった。そこで茂吉を「養子候補」として斎藤家に入れた。茂吉は開成中学・高等学校に通い、東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)を卒業。歌を詠み始めたのは、開成時代からだといわれる。

一回り違う年の差婚

茂吉は斎藤紀一の次女・輝子が18歳になるのを待って結婚。正式に斎藤家の後継者になった。紀一の「青山脳病院」なども受け継いだ。

茂吉と輝子は年齢が一回り以上違った。この「年の差婚」に加え、裕福な家庭に育った「お嬢様」輝子と「田舎の秀才」茂吉とは性格が合わなかったという。

『斎藤茂吉日記』の始まりは、精神医学の現状を視察するため、訪れた欧州からの帰途の船旅の様子を記した『日本帰航記』。

この旅は1924(大正13)年11月にフランス・マルセイユを出発、1カ月以上かかったが、欧州に呼び寄せた輝子も一緒だった。そんな中でのエピソード。

「昨日ノ夕ニハさしみがツイタ六杯バカリ食シタ。輝子ガ夕飯ヲクハシテクレト女給仕ノ婆サンニ云フト、モウ閉ジテシマイト断ツタサウデアル。コレデ二度目ダ」(12月19日)。茂吉がご飯を6杯も食べてしまえば、輝子の分はなくなってしまう─当然の感じである。

茂吉の膨大な日記を見ると、大好物のうなぎを食べたこと、主に新聞社から依頼されて歌を詠んだこと、歌誌『アララギ』の編集などは詳しく記している。それに比べ輝子の記述は少ない。いや、ほとんどない。船旅の間中に限っても、この夕食の話ぐらいだ。その後も、輝子に関する記述はまれで、2人の関係がよく表れている。

33年8月、2人は別居する。輝子のことが新聞に載ったためである。それによると、東京・銀座のダンスホールの教師と「有閑」マダムたちとの不適切な関係があり、その中に「青山脳病院長夫人」がいたと報じられた。

茂吉の方も女性がいたが。離婚ではなく、別居という形にしたのだろう。茂吉は太平洋戦争の敗戦間際、山形県に疎開する。輝子も一緒だった。十数年ぶりに同居することになったという。いずれの経緯も茂吉は日記に記していない。

家付き婚

東京帝国大学の法学部教授(政治学)から戦後、拓殖大学総長、政治評論家になった矢部貞治は、鳥取県・美穂村(現鳥取市)の農家「横山」家に生まれた。鳥取中学校(現鳥取西高等学校)で同級生だった古井善実は、『矢部貞治日記─銀杏の巻』の月報で当時のことを語る。

ちなみに古井は官僚となり、内務次官を務めた。戦後、公職追放が解除されると、自民党から出馬して衆院議員となる。日中友好議員連盟会長として、日本と中国の国交正常化に尽力したことで知られる。

「中学校をずっと同級ですごしたんです。比較的豊かでない小さい百姓の小せがれでしてな。家があまり裕福でなかった。中学校に通う時も八㌔の道を歩いて通ったものです。その間に体を作ったものと思っていますが、初めはあんまり頑強な体じゃなかったと思うんです」

古井によると、中学校3年のときに、矢部安男という地方裁判所の判事のところの養子になったという。苗字も「横山」から「矢部」に変わった。そして、のちに矢部判事の長女・静子と結婚する。「家付き婚」である。

矢部は37年イギリス留学から帰国すると、学者というより、実際政治に関わりだす。近衛文麿首相が打ち出した「新体制運動」である。その中心は、既成政党を解消して大政翼賛会をつくることにあった。日記によると、矢部は具体的な構想を作り、近衛にひそかに会い、提案した。近衛はこれを了解するものの、周りの意見などに押されて、変質させてしまう。

矢部は、そうした近衛に「失望した」。そして、次に海軍にのめり込んでいく。海軍省の嘱託となり「だんだん深みに入った。ひどく熱を上げた。ちょっと生きがいを感じていたようです」(古井)。

戦後、矢部は日記にこう書き、弁明している。「海軍に関係したのも、陸軍をチェックする意識から出たものではあった」とし、「戦争目的を支持したし、海軍にも協力した」(45年9月24日)と述べ、それが問題ならいつでも東京帝国大学を辞める決意だと書いた。そして11月3日、正式に辞表を提出、翌月辞任する。

面白いのは、そんな矢部に「民主主義」をテーマにした原稿、講演、座談会が殺到したことだ。マッカーサーの民主化政策をどう理解し、受け止め、対応すべきか。必ずしも民主主義的な言説を吐いていたわけではない矢部の話を聞こうという姿に、敗戦国・日本の現状がよく表れていたようである。

書生という方式は戦前、よく見かけたとされるが、どれだけ地方や農村の貧しい若者がそれで勉学できたのか、統計的なものはない。斎藤茂吉や矢部貞治のケースが書生だったかどうか。

確かに、教育資金は出してもらった。だが、家事や雑事をしたわけではなく、まず養子となっている。そして、そこの娘と結婚している。よく考えれば、跡取りを設けるため、地元で貧乏で高等教育は望めない若者を選んでいたのではなかったか。

山形県の貧しい農家が分家することは無理。茂吉は三男である。いずれ家を出なければならない定めである。茂吉は僧侶になるかなどと考えていたという。それが養子に入ったことから道が開け、短歌界の第一人者として文化勲章を受章、JR奥羽本線には「斎藤茂吉記念館前駅」ができている。

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