永井荷風の小説「すみだ川」 知らぬ間にヒット曲に
日記で読む昭和史(160)

「春のうららの隅田川」で始まる「花」は、滝廉太郎が作曲した有名な唱歌だが、戦前、ひらがなで「すみだ川」というタイトルで、はやった歌があった。マイクの前に直立不動で歌うことでも知られた東海林太郎のヒット曲である。

「すみだ川」は作家・永井荷風の同名の小説をモデルにしたもので、幼い恋心を持ち合って育った長吉とお糸の物語である。成長したお糸は、家庭の事情から芸者となり、花柳界に身を投じてしまう。一方の長吉はお糸を思いながら、役者になろうとする─。

といったストーリーで、大正末期から昭和初期の庶民の暮らしが情緒豊かに描かれ、話が展開される。歌の方は、作詞は佐藤惣之助、作曲山田栄一でポリドールレコードが発売した。1937(昭和12)年のことである。

荷風の日記『断腸亭日乗』40年12月27日。独り身の荷風は午後に起きだして浅草に行き、例によってオペラ館の楽屋で踊子たちと交遊する。

悪戯

「踊子の一人余の小説すみだ川の一節を取りて流行唄にせしものレコード屋に在りといふ。國際劇場前のレコード屋なりと云ふに程ちかければ幕間の休みを見て共に往きて之を購ふ。表面はすみだ川裏面は森先生(森鴎外)の高瀬舟なり」

荷風は「何人の為せしものなるや。其悪戯驚くべきなり」として、その一部を書き留める。

(前畧)娘ごヽろの仲見世あるく

春を待つ夜の年の市

更けりや泣けます今戸の空に

幼馴染のお月さま

コノ間セリフアリ畧ス

都鳥さへ一羽じゃ飛ばぬ

むかし戀しい水の面

逢へば溶けます涙の胸に

河岸の柳も春の色

セリフは高名な女優・田中絹代が務めていた。自分の書いた小説が歌謡曲になっていることを、3年以上も知らなかった。作詞した佐藤、作曲した山田それにレコードを発売したポリドールも、荷風に何の連絡もことわりもしなかったのだろう。

荷風は流行歌とは無縁の存在だった。当時、歌謡曲を聴くには、ラジオを通じるか、レコードで聴くしかなかった。唯一のラジオ局であった日本放送協会(現NHK)はこの時期、聴取者を増やそうと、庶民が好んだ浪花節(浪曲)、落語、歌謡曲をたくさん放送に取り入れていた。

しかし、荷風はこれらが嫌いで「雑音」にすぎなかった。隣近所がこうした放送を声高にかけると、早々に自宅を出て、「避難」した。その様子を日記に何度も書いている。もとはフランス文学者で、デリケートな神経を持ち合わせていた荷風にとって、浪花節などは生理的に受け付けなかったのだろう。

ただ、不思議なのは、荷風は1940年12月の日記に作曲者とレコード会社名は記しているが、肝心の作詞した佐藤の名前を書いていないこと。佐藤はプロ野球・阪神タイガースの歌「六甲おろし」を作詞したことでも知られる(作曲は古関裕而)。作詞家としてヒットをとばしていたし、詩人としても知られていた。

佐藤の作詞について、荷風は「悪戯」としており、厳密にいえば著作権に違反していると感じていたと思われる。名前を日記に書かなかったのは、なぜだったのだろう。荷風流の忖度(そんたく)だったのかもしれない。

それを理解するひとつの手がかりとして、約半年前の『断腸亭日乗』の記述がある。「夜浅草オペラ館に遊ぶ。小川文夫余が旧作の小説すみだ川を脚色し三月上旬上演するつもりなりとて台本の校閲を請へり。余甚しく當惑するといへども亦如何とすることも能はず」

森鴎外の作品だって

「窃に思ふに森先生の『雁』も既に脚色せられて明治座の舞台に上演せられたり。『阿部一族』は活動寫眞となり『山椒太夫』は浪花節にせらりたり。かくの如き亂暴なる世に在りては、わが拙作の俗了化せらるゝは寧當然のことなるべく、今更驚きかなしむは迂遠の至なるべし」(40年2月26日)

敬愛する森鴎外の作品が舞台にかかったり、映画化されたり、歌謡曲や浪花節となっている。自分の作品、すみだ川がオペラ館の舞台で上演されるのも、もっともなことで、そんな時代になったのだ、それを受け入れようと書いている。

3月12日、荷風はオペラ館の楽屋に行き、すみだ川の舞台を観る。「藝者お糸に扮する女優筑波雪子と云ふは、江戸風のどこやら仇ツぽき顔立ちなれど、實は朝鮮人なりと楽屋雀の影口をきゝ、一種名状しがたき奇異の思いをなせり」

「此夕、雪子舞台裏の板はめによりかゝり藝者の姿にて何やら駄菓子を食ひ指をなめながら出端を待てる様子を見るに、おのづからすみだ川作りし頃の事、かの富松といひしげい者と深間になり互に命といふ字を腕にほりしころの事など夢のやうに思返さるゝ折から、此の美しき幻想の主の外国人なることを知りては奇異の感禁じ難きものあり」

荷風は主役の女優に違和感を抱きながらも、すみだ川を書いた当時のことを思いだす。二度目の結婚をしたが、相手は芸者であった。それが理由で身内と折り合いが悪くなり、ついに絶縁状態になる。特に弟・威三郎との対立である。荷風は2度、威三郎との関係を日記に書いている。それを要約すると─。

威三郎は、荷風の思想及び文学観を過酷に批判している。

荷風が新橋の藝妓を妻とした時、同じ家に住みたくないとして取り壊した。

藝者を家に入れたのは、多年の情交を切るのに忍びず、勤めていた慶応大学も黙認、母とも熟議のうえ決めた。

威三郎は戸籍面より其名を取り去りて別に一家の戸籍をつくった。これで民法上兄弟の関係を断った。

威三郎は結婚した時、そのことを私に知らせてこなかった。

母は威三郎方に同所していたが、(関東大震災の時)見舞いに行くと、威三郎の子供2人が「早く帰れ 帰れ」と連呼した。

こんな関係だったから、「臨終及び葬式にも威三郎方へは赴くことを欲せざるなり」(37年4月30日)。

実際、母が亡くなった時、荷風には連絡もなかった。

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