圓歌が爆笑誘う「中澤家の人々」
落語家が麹町に屋敷
日記で読む昭和史(164)
三代目の三遊亭圓歌は、二つ目の歌奴だった昭和20年代から人気落語家の一人だった。とりわけウケたのは「授業中」という演題で、ドイツの詩人カール・ブッセ作の「山のあなた」(上田敏訳)を朗読する場面だ。
歌奴は吃音を直したいと落語家を志した。この噺では、それを逆手に取り「山のあな、あな、あな」などとどもり、爆笑を誘ったのである。今、吃音で笑わせるようなことは厳禁。この時代はそれが許されていた。私は親がかけていたラジオを聴いて、笑っていたのを覚えている。
三代目圓歌の最高傑作は、晩年の『中澤家の人々』ではないかと思う。横浜にぎわい座などで何度か聴いたことがある。圓歌は本名が中澤信夫という。岩倉鉄道学校から国鉄・新大久保の駅員となり、落語家を目指した人生の道のりを真偽取り混ぜて話を進める。大体、1時間の力演であった。
お寺から病院に
毒舌を交えた語り口は爆笑の連続。圓家は日蓮宗の僧侶になる。お寺で修行中のある時、心筋梗塞のため救急車で病院に運ばれたという。「お寺から病院に行ったのはオレが初めて」。通常、病院で死去し葬儀を行うお寺に運ばれる。それとは真逆だったことで笑いを誘ったのである。
それに身内の年寄りを面白おかしく語る。高齢化問題である。その軽妙さはCDなどで聴いていただくとして、圓歌は6人の老人を抱えていたという。自分と妻のそれぞれの両親、亡くなった前妻の両親である。彼らの日常はたくましくもある。法号「中澤圓法」は朝、勤行をする。と、6人のお年寄りが後ろに並び、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と口をそろえて唱えだした。圓歌は怒鳴ったという。「みんな後ろにいないで(仏壇の)中に入ったらどうだ」。「南無阿弥陀仏」は主に浄土宗である。
「落語家で麹町のど真ん中の屋敷を持っているのは、私だけです」。噺の中で必ずこう自慢する。落語家といえば、浅草周辺の下町の長屋住まい、というのが通常だった。
麹町といえば都心の一等地で、しかも圓歌の屋敷は作家の故有島武郎宅。「前は引っ越してきたとき里見弴先生(作家)、また三軒先は作家の泉鏡花(旧)宅だった」という。
これだけの物件を購入するには、相当の資金が必要だ。圓歌は寄席、ラジオだけでなくテレビや映画にも積極的に進出した。これで財を成したのだろうと思われる。
収入や税金を几帳面に記す
8代目林家正蔵(晩年の林家彦六)の『戦中日記』。太平洋戦争中を含め、落語家で日記をつけていたのは8代目正蔵だけである。その日記の1941(昭和16)年12月31日。太平洋争が始まった直後で「此の年の感想」として次のように記す。
「まづ(ず)収入の点では上半期よりも下半期の方が成績がよろしい。五百円を突破した月は十二月だけだ。四百円台は九月、八月、七月、六月、四月、三月。上半期金弐千壱百九拾九円也。下半期金弐千参百七拾七円也。合計金四千五百七拾七円也」
「これを昨年十五年度の金千七百六十二円なりに比べて金八百拾五円の増収だ。工藤家から金弐千円の借用金ありと云へど預金として金六百円あり。さらに金百円の在留金アリ。昨年の日記に三十円を懐中にして越年出来得るのを感謝した事に比べてまことに神のお恵みといふべき幸福な歳の暮れなり。(原文ママ)」
正蔵は東京・上野に近い稲荷町の4軒長屋の端っこに住んでいた。そして、熱心に寄席に出た。1942年1月1日、「江戸館の昼席を振り出しに四軒歩いて帰宅しての一杯その旨さ。ありがたさ、緊張した市街、はりきった銃後、まことに戦捷の春にふさわしい」。
この年の「初席」で、寄席を4軒回る。戦時中だが東京には寄席が10軒以上あった。戦時中ではあったが、大体繁盛していた。落語と言えば、庶民向けのものだが、銀座にも寄席があった。「金春」という名で、正蔵は何度か出演したことを日記に記している。現在、銀座8丁目に「金春通り」として、その跡が残っている。
寄席は休憩を挟(はさ)んで昼席と夜席に分かれているから、寄席を代え、数回高座に上がれる。正蔵はこうして最高で1日5回も高座に上がり、しゃべる。正蔵は中国行きを誘われる。
「徴用会ならば、月三十円しか貰へぬ。慰問団なれば月百五十円だと云ふ。あまりの莫迦々々しさに、こっちの心境もよくなかったの(で)論争になった」(42年1月7日)
正蔵が中国に出掛けるのは42年9月のことである。「九月十五日南支慰問に出発し、広東。香港。油頭。台湾と歴訪し十二月十五日午前八時無事東京駅に帰還す」「現金壱百円あまり有って年が越せる。まったくありがたい事である。さあ来年は、的が出来たからしっかりやろう。きっとやる」
43年3月31日、所得税の申告をする。「南支慰問のうち八百円は勤労所得にし、七百円の純益にして書出す」。
45年1月30日─「十九年度所得税の申告をなす。収入二千円、経費二百円引 壱千八百円の所得になりけり」
戦況は次第に日本に悪くなる。3月10日の東京大空襲。「見渡すかぎりの焼け野原。サア強くなるのだ。四方に火の手上がるも敵機頻りに来るので防空活動意のごとくならず。夜あける。友人知己の罹災者続々と来訪される」
さらに5月の空襲により、「演芸場は新宿末広、帝都座、新宿松竹、金春など。劇場は新橋演舞場、歌舞伎座など焼失す」(5月26日)。だんだん寄席が消えていくのだった。開演したとしても─。
「浅草の松竹館、出演者来らず入場者満員という珍風景に応援を頼まれ汲み取りの協力をなしつつありしさん馬と一緒にでかけトリを勤めて来る」(5月29日)
「人形町末広がきのう初日で開演した。初日は電気はつかず。あすからは土足で入れるやうにするとのこと」(6月2日)
敗戦直前の8月12日─「二十年度所得税決定通知書来る。二期払ひにて一期額金八百九十七円也。年およそ壱千八百円の割なり」
日記を見ると8代目林家正蔵は時流に向き合い、それに誠実に生きたことがうかがえる。「俺という人は、他人の悪口を一寸云ひたがるクセがある。これがないと満点に近い男だがと自分でも思う。改善しやう。愚痴を云わぬ人になるやうに」(42年3月1日)。こう決意を書いている通り、芸人の悪口などは日記ではみられない。