核、靖国、首相はどうする? 被爆者団体の記憶
8月15日は、正確には太平洋戦争で無条件降伏を受け入れた昭和天皇の「玉音放送」が流れた日。だが戦後81年間、「終戦の日」とされてきた。それは、月遅れのお盆と重なって、非業の死を遂げた膨大な死者たちを悼む痛恨の思いがあるからだろう。
今年注目されたのは、そんな日を首相として初めて迎えた高市早苗氏の言動。結果は、全国戦没者追悼式では戦争への「反省」を述べなかった半面、国際関係を配慮して靖国神社参拝は見送った。「首相になっても参拝する」という以前からの「公約」は果たせなかったが、近くから正式な神道形式で「遥拝」。靖国参拝は鈴木俊一・幹事長ら「自民幹部が代役」(16日付日経)を果たした。首相は保守的な政策を着々と進めているが、核や靖国についてどうしようというのか。災害が続き、何かすっきりしない、この夏の天候のような政治状況だ。
「核議論タブー視は終わり」?
今年の「8月報道」で例年以上に色濃かったのは2点。戦争体験者・原爆被爆者の高齢化による体験継承への不安、そして核兵器拡散への深刻な危惧だ。特に広島(6日)、長崎(9日)の平和式典の高市首相あいさつが「わが国は『非核三原則』を堅持している」との現状説明にとどまった一方、小泉進次郎・防衛相が7月のインターネット番組で「核兵器をタブー視せず、論議すべきだ」と語ったことが問題に。
在京紙では、朝日が6日の社説で「核使用のリスク座視できぬ」と危機感を示し、7日「時時刻刻」では「非核三原則 見直すのか」と高市政権に対する被爆者の危惧を代弁した。東京も1日社説で「非核三原則 揺るがすな」、13日社説でも「流れ断つ被爆国の責任」を論じた。2紙ほど強くはないが毎日、読売、日経も社説などで核廃絶の必要性を主張した。対して産経は6日社説で「核抑止から目を背けまい」と持論を展開。16日付「サンデー正論」では特別記者が小泉発言を支持して「核議論のタブー視は終わりだ」と〝宣言〟した。
被爆地元紙は「核廃絶」
被爆地の中国新聞は6日「核は『絶対悪』 未来託せない」、7日「非核三原則守り続けよ」、9日「『核抑止』の危うさ 再認識を」と社説を連打。長崎新聞も6日社説で「『核なき世界』道筋追求を」と訴え、9日は編集局長兼統括報道部長が「募る危機感、非核の決意を」求めた。
個人的に気になったのは15日付産経の論説委員長による社説特別編「慰霊と顕彰の誠を尽くしたい」だ。高市政権下を意識してか、これまでより一歩踏み出した印象。「国民が国を守る気概、尚武の気風を示すことは欠かせない」「英霊が勇敢に戦ってくれたことに感謝し、顕彰することが欠かせない。戦後の日本に足りなかったものだ」。ここにも戦前回帰の志向がある。
半世紀前の長崎で
8月11日前後の在京紙はそろって、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が1956年の創立から10日で70年を迎えたことを取り上げ、メンバーの高齢化で組織の維持と体験継承が深刻な課題になっている現状を伝えた。被団協は2024年、長年の核廃絶要求運動が認められてノーベル平和賞を受賞。私もその活動は評価するが、いまから半世紀前、1970年代の長崎で取材した被爆者団体の姿は違っていた。
被団協の活動として、被爆者の証言収集が挙げられることが多いが、少なくとも長崎での被爆者証言活動は、鎌田定夫・長崎造船大(現長崎総合科学大)教授が1969年に「長崎の証言」を刊行したのが実質的なスタート。そして私の印象では当初、被爆者団体は鎌田氏が被爆者でなかったこともあって活動を冷ややかに見ていた。その後、韓国・朝鮮人被爆者の問題が浮上した時、私が「外国人被爆者を救うことは日本人被爆者を救うことにつながる」と言うと、ある被爆者団体の幹部は「日本人被爆者を救うのが先ばい」と答えた。長崎の日本基督教団牧師が空襲被害者の組織化を図った際も全く反応しなかった。そこにあったのは「被爆者は特別」という意識。私は個々の被爆者の境遇はある程度理解し、同情もしたが、被爆者団体にいい感情を持ったことはほとんどない。長崎市民の間でも、被爆者は好感を抱くだけの対象ではなく、「本当は被害者でないのに(被爆者)手帳を持っている」などのうわさがあちこちで聞かれた。
私に言わせれば、日本の原水爆禁止運動は1954年、アメリカのビキニ水爆実験による第五福竜丸の被爆をきっかけに東京・杉並で起きた市民運動から始まり、原水爆禁止世界大会が開かれるまでに。その過程で被団協も誕生した。しかし、当時の革新系の党派対立から組織は分裂し、運動は停滞。被爆者団体は1978年の原子力船むつ佐世保修理問題でも、全く実質的な行動ができなかった。ただ一人、親しかった被爆者団体幹部がむつ入港の日、マイカーで佐世保港口に駆けつけ、涙を流しながら見ていたことはこの欄に書いた。彼も早くに亡くなった。原水禁運動は沈滞。1980年代になって欧米の反核運動が逆輸入された形で広がった。その間に被爆者は減り、次第に〝聖域化〟した。
原爆の「意味」とは?
いまさらそんなことを書いてどうする、と言われるかもしれないが、あの頃、被爆者団体があれほど特別な意識を持っていたのは、それは人類史上希有の悲惨と苦難の体験の反動だったのだろう。しかし、それを超えて外国人被爆者や空襲被害者と連帯ができていたら…。そこには、戦後日本の多くの市民運動に共通する問題点がある。
その頃、原爆の「意味」について考えた。一つは当然ながら、1発で甚大な被害をもたらすこと。大量破壊兵器と呼ばれるゆえんだ。しかし、犠牲者の人数だけでいえば、広島約14万人、長崎約7万人(1945年末まで)に対して東京大空襲も約10万人。ただ、原爆はその一瞬だけでなく、その後も長い年月、「原爆症」や後障害で被爆者を苦しめ、死に追いやる。それが二つ目の意味。そして三つ目は、科学的には立証されていないが、被爆者の個体を超え、被爆二世や三世に影響が残る可能性だ。
私は、7年前に死んだつれあいが被爆二世だったことも含めて原爆を憎む。8月9日には、かつて住んだ浦上の谷が被爆者たちの死の静寂に包まれていくのが想像できる。核兵器の本質は、何十年たっても一人でも多くの人間を殺すこと。その残虐さを抜け落とした核抑止論は意味がない。