用語としての「核」と「原発」 連載「メディアの日本語」(25)
2026年の夏も、各メディアで「八月ジャーナリズム」と呼ばれる先の大戦をめぐる集中的な報道が繰り広げられた。ウクライナやイランをめぐる戦争が、核兵器の開発や脅威を現実的なものと意識させる中で、81年前の8月6日、9日に原爆が投下された広島、長崎について多くの報道があった。
同根技術を違う言葉で表現
「原爆 手の中に消えた家族」(2026年8月2日、朝日新聞1面トップ記事の見出し)
この記事の末尾にはこうあった。
「核兵器はどう開発され、なぜ非人道的と言われるのか。原爆と戦争を見つめ続けた女性の97年間をたどりながら考える」
1945年8月に米国が日本に投下したのは「原子爆弾」、略称である「原爆」と表現され、基本的には同じ原理・技術で開発されたそれ以降の兵器は「核兵器」または「核」と表現されている。
こうした表現は他メディアも同様だ。「北朝鮮の核(兵器)開発」を「原爆開発」と表現しないことからも、日本のメディアにとって「原爆」は「8月」「広島」「長崎」とセットで報じられる。それはそれで意味のあることだと筆者も思う。

朝日2026年8月2日付
「被団協」が2025年のノーベル平和賞を受賞した。正式名称は「日本原水爆被害者団体協議会」だが、このように原爆という用語は歴史的文脈のなかで「核兵器」の実戦での唯一の使用例という意味をもっているからだ。
しかし、当然ながら「原爆≠核兵器」ではない。事実上、9カ国に拡大した現在の核保有国の「核兵器」と「原爆」は連続している。
「原爆=核兵器」はウランなどの原子が核分裂するときの巨大なエネルギーが爆発のもとになる。その爆風、熱線は通常の兵器とは比べ物にならず、それにもまして、放射線が生物のDNAを一気に損傷させる。「原子」と「核」のどちらに注目するかで、「原子爆弾(原爆)」「核兵器」と表現が変わってきた。
一方、同じ核分裂を利用して電力を生み出すことを、日本では「原子力発電」、略して「原発」という。何をいまさらという読者の顔が見えてきそうで恐縮だが、ここからがメディアの日本語としての本題になる。
「原子力」には「平和利用」と「軍事利用」があるという表現が広く流布している。日本では、平和利用の代表が「原子力発電」「原発」であり、軍事利用が「核兵器」というわけだ。つまり同根である技術の結果を「原発」と「核(兵器)」と違う言葉で表現している。だが、2011年の東京電力福島原発事故で、核分裂が制御できなくなったメルトダウンという大事故を思い出せば、原発と核の危険は通底しているというのは大げさではない。
日本独特の使い分け
こんなことを考えてしまったのは、2026年6月8日と10日の両日、毎日新聞に二つの社説が並んで載ったことだった。見出しを挙げてみる。
(8日付)
「NPT批准50年 核廃絶への執念が見えぬ」
「原発虚偽申請への罰則 事業者は不信直視せねば」
(10日付)
「原発の建て替え目標 国民理解得るには程遠い」
「『核』誇示する北朝鮮 脅威を高める中国の黙認」
いずれも国内の原発政策と国際的な核兵器問題について論じたものだ。一瞬、「核分裂」という共通の技術がからんだ問題だと気付かせるために並べたのか、と思ったのだ。もちろん、単なる偶然なのかもしれない。前者だとすれば、そのセンスを称賛したいが、見出しから同根の問題であることを想起した読者は決して多くなかったのではないか。
なぜ、こんなことを指摘するのかといえば、「原子力発電」や「原発」という表現自体が、日本では独特の使われ方をしているからだ。
朝日新聞デジタルに「ことば談話室」があり、2013年9月19日に「原子力発電と核発電」という記事が掲載されていた。かいつまんでいえば、日本で「原発」と呼んでいるものは、他国では多くの場合、日本語にすれば「核発電」と表現しているというものだ。
記事でも参照している書籍『〈核発電〉を問う』(戸田清著、2011年12月 法律文化社)には、「『核』系列の用語と『原子力』系列の用語」という一覧表が日英中仏独とエスペラント語で載っている。
それによれば、「原子力発電所」は、英語では「nuclear power plant」、中国語では「核电站」だし、「原子炉」は、それぞれ「nuclear reactor」「核反应堆」と、日本語の「原子」はすべて「nuclear=核」だ。これは仏語、独語でもほぼ同じだ。「核电站」は日本語では「核発電所」となろう。IAEA(国際原子力機関)など、「原子力」に当たる「atomic energy」「原子能」という言葉もあるが、使われる頻度は多くない。
そして、「核兵器」をみると、英語は「nuclear weapon」、中国語は「核武器」である。つまり、中国語や英語で原発のニュースや情報を得ている人は、原発も核兵器も同じ核を使ったものである、ということが明確に意識される。逆に言えば、日本語では、「原子力」と「核兵器」との共通性にあまり意識が向かないことになる。
戸田氏はこの著書のプロローグで「私も個人的には用語として『原発』よりも『核発電』を用いるべきだと思う」と書いており、「ことば談話室」も引用しているが、日本のメディアで「核発電」が使われることは、ほぼない。
転機は1955年

朝日1952年3月14日付
先に紹介した毎日社説の見出しの「原発」を「核発電」に換えてみる。
「NPT批准50年 核廃絶への執念が見えぬ」
「核発電虚偽申請への罰則 事業者は不信直視せねば」
「核発電の建て替え目標 国民理解得るには程遠い」
「『核』誇示する北朝鮮 脅威を高める中国の黙認」
こんな見出しであれば、二つの社説とも、「核」を意識させ、共通の土壌の問題であることが伝わるだろう。
日本のメディアも、かつては核兵器と原発を、同じ共通の土壌にある用語で報じていた。
朝日新聞のデータベースで見ると、1954年ごろまで、現在の「核兵器」を意味する用語は、当初の「原爆」から「原子兵器」という用語が一般的になっていた。

朝日1949年12月26日付
「朝鮮戦線の劣勢に対処 米、原子兵器の使用検討説」(1952年3月14日付夕刊見出し)
一方、「原子力発電」という用語は戦後すぐに登場している。
「ソ連近く原子力発電」(1949年12月26日付朝刊、AP=共同電)
「原子兵器」と「原子力発電」が紙面で共存していた時代は、読者にとって両者の共通性も自明だっただろう。

朝日2026年6月27日付
だが、1955年ごろから「原子兵器」は「核兵器」という言葉に切り替わり、さらに、「核」という1字に象徴されていく。一方、「原子力発電」は「原発」という略称で報じられるようになり、「核」と「原発」は、いわば切り離された「別の物」として報道されていく。
1955年といえば、日本新聞協会の新聞週間の標語が「新聞は世界平和の原子力」に決まった年であり、メディア界が「原子力の平和利用」の推進役になったエピソードとしても知られている年だ。
2026年5月、核不拡散条約(NPT)の再検討会議は決裂し、核兵器の拡散を食い止める「成果文書」を3回連続で採択できなかった。これを報じた各メディアは、NPTの目的を「核不拡散、核軍縮、原子力の平和利用」と説明し、ここでも日本語では核(=核兵器)と原子力は区別されているが、本来、NPTは原発と核兵器に共通する核分裂物質の移動について決めたものだ。北朝鮮やイランの核問題も原発の開発と切り離せないのは周知の通りだ。
「核」のイメージ希薄化
メディアの表現の淵源は政府の訳にある。日本がNPT条約を署名したのは1970年、批准したのが1976年。外務省のホームページにあるNPTの全文を見てみる。
「原子力の平和利用」の箇所は第3条で、外務省の日本語訳は「締約国である各非核兵器国は、原子力が平和的利用から核兵器その他の核爆発装置に転用されることを防止するため(以下略)」となっている。
同じページにある太字部分の該当英文は「to preventing diversion of nuclear energy from peaceful uses to nuclear weapon or other nuclear explosive devices」と、「原子力」に当たる箇所は「nuclear energy(=核エネルギー)」だ。中国語の該当単語も同じく「核能」、つまり核エネルギーである。
政府が「nuclear energy=核エネルギー」を「原子力」に置き換え、メディアも踏襲してきたわけである。「核エネルギーの平和利用」と表現すれば、「核兵器」との連続性を自然に意識できるのは、「核発電」と表現した場合と同じだろう。
メディアも原発のもつ「核分裂」の危険性に無頓着なわけではない。今年に入り、政府が原発から出る「高レベル放射性廃棄物」の最終処分場の選定をめぐる動きを活発化させているが、その廃棄物のことをカッコつきで「核のごみ」と表現しているのは、その一つの現れだろう。例えばこうだ。

日経2026年9月1日付
「経済産業省は31日、茨城県常陸大宮市に高レベル放射性廃棄物(核のごみ)処分に向けた文献調査の開始を申し入れた」(9月1日付、日経)
この記事の見出しも「核ごみ最終処分場文献調査」となっていて、原発と核との関係を意識させるものではある。
ただ、『朝日新聞用語の手引き』(改訂第2版)では、「核のごみ」「核廃棄物」について、「核兵器製造工場や解体された原子力潜水艦などから出る、軍事に絡む廃棄物や、原発の使用済み核燃料を再処理した後に出る高レベル放射性廃棄物、原発事故で溶けた燃料などに使う」とし、「使用済み核燃料そのものや低レベル放射性廃棄物には使わない」と限定している。
2000年10月に設立された「原子力発電環境整備機構」という組織がある。上記の「核のごみ」を国内で地層処分する認可法人で、最近は記事になることも少なくない。機構のホームページによれば、略称のNUMO(ニューモ)は「Nuclear Waste Management Organization of Japan」の略だという。直訳すれば、「日本核廃棄物(核のごみ)管理機構」だろう。英語名ではちゃんと核廃棄物(核のごみ)となっているのに、日本語の固有名詞には、そのどちらも登場しない。メディアも、この組織の日本名と略称を報じるのみで、原発から極力「核」という要素を薄めようとする表現がいまも続いているといえる。
生成AI(人工知能)の開発と運用に向けた膨大な電力需要のため、原発の活用の是非をめぐり、メディアの間でも議論が分かれている。安全性の議論は当然だとしても、「原発も核エネルギー」という国際的な表現を確認するのが先かもしれない。
メディアには「核なき世界」という言葉が頻繁に登場する。横田美香広島県知事が8月6日の式典で「人類は核兵器とは共存できません」と述べた世界を目指そうというものだろう。だが、「原発=核発電」と捉え直せばどうだろう。現実にウクライナの原発はロシアの攻撃対象になった。「核なき世界」という言葉が、また違った響きに聞こえてくるように思う。