選挙に併せてボートマッチをやるとしたならば、どういう配慮が必要なのだろうか。そして、やっていけないことは何か?2023年4月の統一地方選に向け、東京都杉並区が住民参加で進めたボートマッチは、直前になって総務省が「公職選挙法違反の疑いがある」と指摘し、中止に追い込まれた。

地方選における若者の極めて低い投票率を、インターネットツールで何とか掘り起こしたいという意図は理解できる。地方選挙の運営に住民が参加するのも、それほどおかしな話ではない。

なぜ「画期的」と期待された取り組みが、挫折したのか。そこには、選挙管理委員会という組織の政治的中立性をめぐる課題や、「べからず集」といわれる窮屈な公選法の運用、世論誘導につながらないかというボートマッチ設計への懸念、そして現状維持を指向する政治勢力の反発が浮き彫りになった。一方、ボートマッチ作成を通じて市民が選挙運営の当事者となり、運営に主体的に関わっていくある種の民主主義の可能性も垣間見えた。何があったのか、公開された議事録などを基に検証してみよう。(文中敬称略)

新区長登場

2026年6月29日、現職杉並区長の岸本聡子は、次点の自民党推薦候補に約6万票の差をつける10万票超の得票で、再選を果たした。幅広い区民の支持を得たと言えるだろう。この岸本区政の下で取り組まれたのが、ボートマッチだった。22年6月の区長選で初当選した岸本は、地方選挙の投票率低迷に危機感を抱いていた。杉並区選管は若年層の投票率を上げるための「起爆剤」として、区議選候補者を対象としたボートマッチに注目した。すでに毎日新聞など複数の新聞社や民間企業が国政選挙や東京都知事選でボートマッチを行っていたが、自治体が地方選挙で、しかも投票率向上のために行うのは、日本初の試みであり、新聞やテレビ、ネットメディアの注目を集めた。

もう一つの特徴は、地方選挙の運営に有権者が直接参加したことだ。ボートマッチの質問や解説を作成する企画委員の半数は、20~30代の若者が占めた。若者が本当に政治に無関心だったわけではない。それを企画委員たちは示した。

岸本とはどんな人物なのか。公開されているプロフィールから紹介しよう。1974年、東京都の大田区生まれ。環境に関する非政府組織(NGO)の有給スタッフとして地球温暖化対策に取り組んだ。その後、ボートマッチ発祥の地であるオランダに10年、ベルギーでも10年、NGOで民営化した事業の再公営化などの公共政策を担当し、2022年に帰国したばかりだった。

オランダもベルギーも、ボートマッチが選挙の情報提供手段として社会に定着し、主権者教育も盛んだ。投票率は80%前後に達し、若者の政治参加も活発だ。そうした政治文化の中で、岸本は欧州流の市民主体となる民主主義を、実務と経験を通じて知る人物だった。


杉並区ホームページより引用 https://www.city.suginami.tokyo.jp/s009/466.html

杉並区ホームページより引用 https://www.city.suginami.tokyo.jp/s009/466.html

欧州の民主主義国と違い日本の投票率は低い。特に若者層は顕著だ。2026年2月の衆院選で20代の投票率39・0%。全世代で最も低く、60代の70・2%との開きは歴然としている。18歳と19歳の投票率を見ても43・6%にとどまる。杉並区議選の投票率は、全体として2015年は40・1%、19年は39・5%だった。特に20代の若者層は、15年が21・4%、19年は20・4%、23年は26・0%と全国的に見ても極めて低かった。

2022年9月14日、杉並区選挙管理委員会は「インターネットを活用した何かをやってみよう」と、検討に着手した。10月には、東京青年会議所(JC)から、「ボートマッチ」のレクチャーを受けた。11月16日、杉並区選管は23年4月の区議選でのボートマッチ導入を正式決定した。

20~30代の若者約10名を公募して「企画委員会」を組織し、市の職員のアドバイスを受けながら質問案を作成する。中立性を保つ方策は、質問項目は、区議会で審議された区の総合計画や実行計画の中で取り上げられている課題に限定する。こうすれば、区議会議員は全て把握できる内容であり、候補者や有権者に区政課題への理解を深めることもできる。併せて、若年層に届くようにと、QRコードを印刷したカードの高校生への配布を決めた。

選管事務局はその後、12月にかけて自民党系を含む杉並区議会の各会派を回り、翌年4月の区議選でのボートマッチの実施と検討状況を説明した。ボートマッチは、公選法6条に基づく啓発活動に当たるとの説明が行われた。この時点では、明確な反対は全くなかった。

杉並区選管は12月13日付で、ボートマッチの作成・保守業務を「選挙ドットコム」のサイトを運営する株式会社イチニと随意契約した。杉並区側は質問と解説を決め、立候補予定者にアンケートを行って回収、データを渡せば、ボートマッチサイトが出来上がる。選管は毎日新聞のボートマッチ立ち上げに深く関わった松本正生埼玉大学名誉教授らの意見も聞いて、品川区長選や沖縄県知事選でサービスを提供してきた選挙ドットコムを選んだ。

筆者が情報公開請求で得た資料によれば、契約理由は「候補者単位でのボートマッチ提供実績があり、契約期間中の緊急対応も可能。円滑かつ適切に遂行できる唯一の業者」というものだった。半年という短期間で実施するには、実績ある専門業者との随意契約も仕方ないとの判断だったのだろう。ボートマッチのサービス料として支払われたのは99万円。結果的に事業は中止されたが、この費用は支払われた。

中止命令

年が明けた2023年1月16日、東京都選管は、杉並区選管に対し、ボートマッチの趣旨を改めて照会した。杉並区選管は「政治常識の向上に努めるとの趣旨の公選法6条に基づいた啓発事業の一環であり、区の総合計画をベースにした公平な質問作成を行っている」と、中立性への配慮を強調した。都選管もこの時点では「区の責任と判断で進めてほしい」と、従来の見解を示した。

杉並区選管はスケジュール通り、投票率アップ企画委員12人を1月18日の定例会で正式決定し、続けて第1回企画委員会を開催、質問項目の作成に着手した。企画委員は公募が7人。残りの5人は、明るい選挙推進委員や選挙サポーター、ボートマッチ運営の経験があるJCから選ばれたメンバーだった。企画委員会第2回は1月27日で、議論が白熱し午後10時までかかった。

だが、23年1月31日午前11時半、総務省は東京都選管を通じ「ボートマッチは公職選挙法に抵触する可能性がある」と見解を伝えてきた。候補者の見解を公表し、有権者との一致度を示す行為は、候補者への人気投票に該当し、同法138条の禁止規定に抵触する恐れがあるとの理屈だった。

さらに、政治的中立性が求められる選挙管理委員会がこれに関与することは、同法136条の「特定公務員による選挙運動の禁止」に該当するとの内容だった。

2月2日、納得できない杉並区選挙管理委員長の與川幸男は都選管へ出向き、選挙課長らに直談判した。「啓発事業であり、選挙運動ではない。行政の恣意(しい)性を排するため、区民団体が質問を作成し、選管がそれを監修するという公平なスキームだ」。都選管側はいったん、與川に「すべての候補者を公平に扱うこと」など3点の順守を求めるところまで譲歩した。3日には企画委員会の第3回会合が開かれ、質問選びと解説の検討が行われた。

しかし、2月10日、都選管から改めて6項目の要請が届いた。「要請」という形をとった中止通告だった。ボートマッチは杉並区選管が主張する「啓発事業」ではなく、中立性を欠いた「選挙運動」と断じ、中止を迫ってきたのだ。

公選法6条は、地方選管に対し「選挙が公明かつ適正に行われるように、常にあらゆる機会を通じて選挙人の政治常識の向上に努めなければならない」と啓発活動を義務付けている。一方で、136条は公務員の政治的中立性を保つため、選管を含む特定公務員による選挙運動を厳格に禁じている。杉並区選管は、2月13日に6項目要請への再反論を試みた。

企画委員会では、若者たちが、全国初の区民参加の区議選挙という試みに向けて、懸命に質問作りに励んでいた。この13日には第4回の企画委員会が開かれ、質問はほぼ出来上がっていたようだ。だが、総務省・東京都選管と、杉並区選管の乖離(かいり)はもはや、埋め難いものとなっていた。

区議会での大反対

2023年2月14日の杉並区議会定例会で、自民党系会派で生粋の保守派を自認する松浦威明は、杉並区でのボートマッチ実施に徹底的に反対した。「目新しいことに対しては、誰もが新鮮に見え、興味深いものがありますが、これまでに行ってこなかったその理由もきちんと検証せずに、拙速に進めることは、私たちの先祖を侮辱する行為と言わざるを得ない」

松浦は続けて、以下の6点を主張した。

①議会を軽視し、チェック機能を奪う。

②行政の集権化を強めるものだ。

③行政機関である選管が、政治的な判断を下すことになる。

④質問の設定は、特定の候補者への誘導につながる。

⑤選管が主体となれば公選法に抵触する。

⑥有権者の選択の自由や被選挙権を侵害する。

区長である岸本は「若年層の選挙への関心を高め、投票率の向上に寄与することを期待する」と述べ、若年層の投票率向上は、党派を超えた課題ではないかと強調した。さらに区民による質問作成の土台が、与野党の区議会議員がすでに議会で審議し合意した「杉並区実行計画」にあることを改めて説明した。

松浦は、杉並区実行計画には全く触れず、批判のトーンを上げた。東京都選管が杉並区選管に求めた6つの確認事項への対応について説明を求めたのだ。事務局長は「現時点において、東京都選管や総務省から正式に違法性の懸念があるとの連絡はいただいていない」と答弁した。この一言をもって、激しい議論が交わされた定例会は午後4時半過ぎに散会となった。

総務省の最後通告

同じ2月14日午後、総務省は、地方自治体がボートマッチを行うことは違法であるとする事務連絡を全国に発出した。「ボートマッチは啓発事業」という杉並区選管の主張を、「啓発の範囲を超える」と断定し、選挙活動ではないという反論も退けた。

事務連絡には、「ボートマッチが選挙運動と見なされる恐れがあり、訴訟になれば選挙無効となるリスクすらある」と記されていた。通達を杉並区選管が把握したのは、区議会が散会した直後の午後4時半すぎ。総務省によって、杉並区のボートマッチと、区民参加の民主主義の取り組みは、断念に追い込まれた。翌15日、杉並区は正式にボートマッチの中止を決定した。選挙管理委員会の会合で、委員長の與川は「一連の責任を取らせていただきたい」と、委員長職および委員の辞任を表明した。

出来上がった質問項目

それでは企画委員の若者たちは、具体的にどのような質問案を考えていたのだろうか。ボートマッチの中止が正式決定された2月15日の時点で、質問項目と解説のリストは既に出来ていた。中止決定以降、区はリストを封印した。筆者は開示請求を通じ、その内容を確認した。完成していた質問項目は20項目だった。自民党区議が「特定の候補者に誘導する」と厳しく批判した質問項目だ。だが、これらは果たして危険な扇動にあたるとは思えない内容だった。

質問には、約400字の解説と、背景となるデータが添えられていた。例えば、子ども政策の「保護者負担の軽減」は、次のように解説している。「義務教育の無償化は本来国の役割ですが、区立学校に通う児童・生徒の保護者の経済的負担の軽減を図るため、区独自の施策として、所得の制限なく、義務教育にかかる経費の一部を公費で負担しています。また、所得基準を設け、学用品費や給食費等を支給する就学援助を行っています。義務教育の保護者負担を公費負担の拡充によりさらに一律に軽減すべきかどうかが課題になっています」

さらに、現行の公費負担の状況、給食費を無償化した場合の試算など、ボートマッチを利用した有権者がいろいろな角度から判断できる材料も用意している。有権者はこれらを読み込んだ上で、「賛成」「やや賛成」「中立」「やや反対」「反対」の5つの選択肢から回答を選ぶ仕組みだった。

関係者の沈黙

ボートマッチ中止決定から約1カ月後の2023年3月16日、選管は企画委員会のメンバー12人に対し、経緯を説明し、謝罪した。企画委員たちからは「作成した質問表を公開して、今後の区政に活用してほしい」という切実な声が上がった。しかし、杉並区は応じなかった。今なお、その質問表は「選挙管理委員会の政治的中立性に関わる」との理由で、積極公開はされていない。「候補者を知る機会を増やしたかった」「投票率の低さを何とかしたかった」と語っていた企画委員たちも、今では「そっとしておいてほしい」と口をつぐむ。

選管委員長を辞任した與川は、人望厚い教育者だった。23年2月15日、ボートマッチ断念を正式決定した選挙管理委員会会合では「これまでの議論が決して無駄だとは思っていません」と無念さをにじませていた。若者の投票率向上に向けた啓発事業への思いを、改めて聴きたいと、何度も取材を申し入れたが、返事は「昔のことです」という伝言のみだった。

無念さを共有

ボートマッチを「画期的な取り組み」と評価してきた無所属の杉並区議堀部やすしは、2024年12月の取材の際、「企画委員会に参加して質問案を作った人たちは、さぞ無念だろう。せっかく作ったものがお蔵入りしたのだから。これは大きな問題だ」と吐露した。堀部は、市民が政治に関心を持ち参加する機会としてのボートマッチに期待を寄せてきた。「投票率は4割にも届かず、若者に至っては3割未満。議員の正統性そのものが問われる状況だ。ボートマッチを否定するなら、低投票率に対してどう取り組むのか」

杉並区選管から相談を受けていた埼玉大学の松本も失望を隠さない。「地方議会の選挙は、候補者のなり手不足も深刻だ。有権者だけではなく、候補者までが〝選挙離れ〟している。メディアも注目せず、選択のための情報もない」。そして「地方の選挙こそ、ボートマッチが必要なのだ。地域ごとの課題を候補者にぶつけ、議論をまとめ上げるツールとして、これほど面白いものはない」と、その可能性を強調した。

残された課題

杉並区の事例が示したのは、質問項目や解説文の内容それ自体よりも、誰が作り、誰が運営し、誰が責任を負うのかという、徹底的な透明性の問題だった。行政機関である選挙管理委員会が主体となれば、たとえ、当事者が主観的に「公正に運営している」と考えていても、懐疑派から「政治的誘導ではないか」との疑念を招きやすい。総務省や東京都選管が重視したのも、まさにその点だった。

一方で、低投票率や政治的無関心が深刻化する中、有権者に候補者や政策を比較する材料を提供しようという試み自体まで否定されるべきではないだろう。杉並区で企画委員を務めた若者たちの議論は、ボートマッチが単なる投票支援ツールではなく、市民が地域課題を学び、民主主義に参加する場にもなり得ることを示していた。

だからこそ今後は、行政から独立していると判断され得る担保を備えた主体が運営し、質問作成過程、採択基準、アルゴリズムを公開し、特定の立場への誘導を排する明確な倫理基準が求められる。やってはいけないのは、有権者に「誰に投票すべきか」を示すことだ。やるべきなのは、「何を基準に選ぶのか」を考える材料を提供することである。

杉並区のボートマッチは実現しなかった。しかし、この試みが投げ掛けた問いは今も残っている。若者の政治参加をどう広げるのか。地方選挙における情報不足をどう補うのか。そして民主主義の担い手をどう育んでいくのか。杉並区の挑戦は挫折に終わった。だが、そのチャレンジが浮かび上がらせた課題は、日本の民主主義そのものが向き合うべき課題でもある。

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