横田球生が映した沖縄報道の本質 根津朝彦・立命館大教授が論文(下)

共同通信の那覇支局は1960年春に米民政府から設置を認められ、10月1日に開設した。時事、朝日、毎日に次ぐ4番手だった。共同社内で外信部、社会部を中心に初代支局長人事が議論されたが候補者が断るなど難航し、9月になって政治部の横田球生に白羽の矢が立つ。横田は主流派になったばかりの池田派担当。政治部記者にとって永田町を外れることは記者生命を左右するという感覚が横田にもあった。

池田首相からの密命

親身になった政治部OBからはこんな引き留めをされた。「政治部記者の本来の道は何かを考えるべきだ。横道に逸れたら部内から信頼されなくなる」「沖縄に行くことは政治部の本流から外れ、傍流になることを意味する。絶対に本流を歩め」

だが逡巡の末、横田は赴任を決める。その思いを自著に「沖縄は自ら志望して三年間汗を流して取り組んだ仕事。やりだした以上は現地に行って懸案の支局を自分の手で開設し、取材活動するのが記者の本分」と綴(つづ)っている。

根津朝彦・立命館大教授の論文には、この当時の新聞・通信業界の空気をうかがわせる逸話が紹介されている。赴任前、外信担当の編集局次長に横田が沖縄取材の心構えを聞いた時のことだ。この局次長はこう答えた。

「さまざまな人権問題をどしどし送ればよい。その結果として、万一米軍が君を追い払うようなことがあっても、共同としてはちっとも構わんと思う」

社が苦労して獲得した支局開設の権利ではあるが、仮にそれをフイにしても書くべきことは書くべきだ─。目的と手段をはき違えないこのような言説が当時のメディア組織で語られていた事実は記憶にとどめておくべきだろう。

濃淡の差はあれ、他の駐在記者も同様のリスクを意識していたようで、横田の在任中に任期途中で一時帰京する記者は誰一人いなかった。

沖縄への再入域を審査する権限は米側にある。米軍や米民政府に厳しい記事を書いてきた記者がいったん本土に帰ると沖縄入りを拒まれる恐れがあったからだ。中国やロシアなど現在の権威主義国家を彷彿(ほうふつ)させる逸話である。

横田は赴任直前の9月下旬、ひそかに池田勇人首相から自宅に呼び出されている。「沖縄に関して何をなすべきか、何がいま可能であるかレポートを書いてほしい」との要請だった。この時のことを横田は次のように綴っている。

「一民間メディアの記者が政治家の依頼を受けてそれに応ずる─この是非は議論を呼ぶところであろう。(中略)その非難は甘んじて受けるが、政治とメディアの癒着では決してない、と自分では考えている。(講和)条約調印以来の池田の沖縄への気持ち、熱意に対して、沖縄を見つめ続けてきた記者の心の琴線がきわめて素直に反応した、と言えるかもしれない。私はいまもこのことを後悔していない」

〝危ない取材〟

赴任後の横田は祖国復帰と人権回復を取材の2本柱とした。そして着任半月もたたない10月12日、悪名高い新刑法を発布しようとしたブース高等弁務官との単独会見に成功する。出版規制など米軍の圧政を問うた記事は翌13日の沖縄タイムスに掲載されたが、その内容に怒った米軍の情報担当官はすぐに支局を訪れ警告を発した。

記者としての横田の持ち味は、そうした威圧や恫喝(どうかつ)をエネルギーに変換する力だろう。横田はひるむどころか、ますます米軍の神経を逆なでするような〝危ない取材〟を重ねていく。その一つが沖縄人民党委員長の瀬長亀次郎の自宅訪問だった。反米運動の闘士として知られる瀬長の自宅前には派出所があり、米軍も出入りを監視していた。後難を恐れる記者たちが訪問を避ける中、横田は繰り返し訪ね、人民党機関誌の出版許可訴訟などの特ダネをものにしていく。

11月末、横田は池田首相と約束したレポートを送付。その中で提言した「日の丸掲揚の自由」は翌61年6月の日米首脳会談で実現することとなる。

61年2月、ブースを上回る暴君と後年いわれたキャラウェイ高等弁務官が着任。天敵となる横田は「能率至上主義、視野の狭さ、独裁的性格、自己顕示欲」が東条英機と同じだと回想している。

首脳会談直前の6月上旬、横田の運命を変える出来事が起きる。キャラウェイ弁務官の招待で国会議員団12人が来沖。最終日前日の3日目に横田が「やり残したことはないか」と問うと、団員の一人が「人民党の瀬長さんとは握手をしたかったが」と言い、横田は翌日に共同の支局に瀬長を呼んで団員と引き合わせた。ところがこれが米軍の知るところとなり、横田は米側から厳しい尋問を受けた。結果としてこの出来事が横田の離任を招くことになる。

出なかった感謝状

共同本社から「支局長交代、帰社されたい」の速達が届いたのは着任わずか1年後の61年10月10日。訪沖した国会議員団に瀬長を引き合わせた件が米側の怒りを買ったことは明らかだった。だが横田は妻が臨月であることを理由に交代延期を申し出る。本社社会部内でも外圧による交代はおかしいとの議論が出て、横田の帰任はしばらく棚上げとなった。

当時の米側は本社に圧力をかけるだけではなく、なんとか横田を手なずけようと硬軟両面で対応していた。61年8月にはキャラウェイ弁務官の八重山視察の同行2記者の一人に横田を選び、同年末には、弁務官主催の新年祝賀会に妻同伴の参加を求める招待状が届いた。横田はそれらに応じる一方で、米側を震撼させる記事を次々に書いた。その白眉は62年2月の立法院による施政権返還決議の前打ちだった。

立法院の返還決議は毎年のように出されていたが、この年は国連総会の植民地独立付与宣言を引用した特別の内容だった。つまり沖縄を米国の植民地に見立て、国連宣言通り独立させよという論旨で、事前に漏れれば米側や日本政府が妨害することは明らかだった。いち早く察知した横田は立法院議員らと調整して本会議直前に記事を配信し、日米当局を慌てさせた。


2002年5月15日に那覇市で開かれた「復帰30年・共同通信那覇支局開設25周年の会」で挨拶する横田球生氏。これが最後の訪沖となった。(牧野俊樹氏提供)

2002年5月15日に那覇市で開かれた「復帰30年・共同通信那覇支局開設25周年の会」で挨拶する横田球生氏。これが最後の訪沖となった。(牧野俊樹氏提供)

この直後の2月下旬、横田の沖縄離任が正式に決まる。わずか1年5カ月の在任だったが、各政党や団体が送別会を催し、社会大衆党代表は「何十人かの本土記者が来たが、このような会を開いてお別れするのははじめてだ」と挨拶した。対照的に、米民政府は離任者に贈る高等弁務官感謝状を横田には出さなかった。横田は後年「感謝状をもらえなかったことこそ、私の勲章」と回想している。

帰京後の横田は、その後取材のための沖縄への再入域許可の申請を重ねるが4回連続不許可となる。常任幹事を務める在京沖縄記者会も、質問状を送付したケネディ大統領が暗殺され、有力社の那覇支局設置で加盟社が少しずつ脱退するなど活動が先細りしていく。

横田は後年、共同労組委員長や政治部次長を務めつつ在京記者会を切り盛りし、屋良朝苗と西銘順治が争った68年の主席公選ではそれぞれの記者会見を主催したが、これが記者会の実質最後の活動となった。それは本土メディアが沖縄に拠点を構築し終えたためではあるが、体制の整備は横田のような記者の個性や問題意識を薄れさせていく背景にもなったようだ。

機能不全の沖縄報道

70年11月、戦後初の国政参加選挙があり、「候補者全員と旧知の仲」だった横田はデスクとして沖縄入りした。社は「デスクは行く必要はない」と認めなかったが、意地もあって休暇をとって現地に入った。

この頃、在京沖縄記者会は休眠状態となり、会費徴収をやめている。そして沖縄が日本に復帰する1カ月前の72年4月15日、記者会は解散する。発足から12年7カ月を切り盛りした横田にとっては感傷もあっただろうが、沖縄返還という歴史的イベントはそれを上書きしたようだ。復帰の日の5月15日午前零時、本社編集局の沖縄総合デスクにいた横田は、那覇支局の現地デスクとして派遣された吉田達郎と専用線で会話した時の様子を次のように綴っている。

「『ついにやったな』『うん、この日が来たんだ』─。長年沖縄に取り組んできた二人にはこれだけの会話で十分思いは通じた。生涯、二度と味わうことができないかもしれない感動の一瞬だった」

返還の裏では米軍基地の温存だけでなく本土の基地機能の移管が進むなど、現地では「第2の琉球処分」とも言われたが、横田は「問題の多くは政治の力で解決可能」と楽観視していたという。

横田はその後、ラジオ・テレビ局報道部長、岡山、京都支局長、編集局選挙調査室長などを経て90年6月に退社した。社を辞めた後も横田はたびたび沖縄入りし、最後の訪問になったのは復帰30年の2002年5月。現地のメディア関係者約30人が歓待したが、既に食道がんを患っていた横田の姿に、参加者はこれが「別れの宴」だと悟ったという。その半年後の11月6日に横田は73年の生涯を閉じる。

論文の最後に、根津教授は「返還により本土側の沖縄に関する関心の切実さは薄れていき、横田球生や在京沖縄記者会を継承するような本土メディア側のネットワークは不在となった。そのことは本土が米軍基地を沖縄に押しつけてきた歴史をより忘却することにつながる」と指摘。「沖縄と本土の認識のギャップや情報格差をうめる可能性のあったメディアの役割がうまく機能していない」と、現状の沖縄報道の課題を提起している。(敬称略)

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