「沖縄特派員」の情熱と葛藤描く 根津朝彦・立命館大教授が論文(上)

沖縄が米占領下に入り1972年に本土復帰するまでの十数年、「沖縄特派員」と呼ばれる記者たちがいた。米軍に生殺与奪を握られながらその圧政を報じてきた強者(つわもの)たちだ。だが彼らの活動は社史やジャーナリズム研究史にも深く刻まれることなく今日に至っている。立命館大学産業社会学部でメディア社会を専攻する根津朝彦教授が初めてその重い扉を開き、一人の沖縄特派員を通してその時代を描いた論文をこのほど上梓した。2回にわたりその概要を紹介する。

「無関心」

論文のタイトルは「共同通信初代那覇支局長の横田球生と沖縄特派員の時代」。(上)(下)の2部構成で、(上)には「東アジアでの思想形成と在京沖縄記者会立ち上げ」、(下)には「那覇支局開設と在京沖縄記者会の活動」の副題が付いている。


学術誌『メディア史研究』(ゆまに書房)に掲載された根津朝彦・立命館大教授の論文

学術誌『メディア史研究』(ゆまに書房)に掲載された根津朝彦・立命館大教授の論文

約5万字に及ぶ論文の狙いを根津教授は「横田球生という一記者から深入りする方法を用いることで、沖縄特派員の時代に見られた記者の主体的な活動を照射する試み」と記している。

横田は知る人ぞ知る沖縄特派員の象徴的存在。1960年10月から62年2月まで共同通信の初代那覇支局長を務めただけでなく、東京に各社横断的な「在京沖縄記者会」を立ち上げるなど当時の沖縄報道をリードしてきた。なぜ横田を選んだのか。根津教授は、その意味を「無関心」という言葉で示し、次のような逸話を紹介している。

横田は支局開設の際にあいさつで「日本政府及び日本国民一般の沖縄無関心を攻撃する前に、新聞人の冷淡さを反省すべきでしょう」と述べた。その42年後、横田が亡くなる2002年においても、なお横田は「日本国中を、沖縄復帰とはなんだったのか、などについての異常なまでの無関心さが覆っている」と書かざるを得なかった。根津教授はこの本土の「無関心」こそが沖縄問題の核心であり、それをベースに沖縄報道を続けたのが横田だったと指摘する。

論文では、そうした「無関心」を象徴する話として、02年11月6日に横田が死去した際、「沖縄タイムス」「琉球新報」の2紙が同日夕刊で関係者談話付きの訃報を掲載する一方、在京主要紙に一切記事がなかったことを紹介している。

(上)では、横田の幼少期から共同通信に入社して沖縄報道に深入りしていくまでの前半生が検証されている。横田は1929年10月18日に東京で生まれた。憲兵であった父・七郎の転勤で幼少期を京城(現ソウル)や満州で過ごしたが、論文は記者あるいは人間としての横田の資質を育んだ背景としてこの父の存在に焦点を当てる。

例えば七郎が京城憲兵分隊外事係として各国の領事館や外国人とつきあう中で情報を探る任務に就いた頃のことを、横田が後年「人間として信頼されないと小さな情報さえ取れない」と綴(つづ)ったこと。また父がある日「今度着任した上官は優秀だ。士官学校を出た人だが朝鮮人なんだ。だけどすごく立派な方で日本人以上だ」と語った言葉を記憶していること。つまり「憲兵」というイメージでは測り切れない七郎の深い人柄が記者としての横田に投影されているのではないかとの見立てだ。学齢期に入り横田は七郎の転勤に伴い10回も転校を重ねるが、このことも偏見や先入観を持たない人格形成につながったと根津教授は推察する。

論文は、満州で小学校時代を過ごした横田に矛盾した二つの思いがあったことを記している。一つは満州国を傀儡(かいらい)国家として「偽満」と呼ぶことへの違和だ。横田は「日本による満州統治を全否定できるのかな、あるいはプラス面もあったのでは」と綴り、ためらいながらもその一方的な侵略史観に疑義を抱く。半面、購読していた小学生新聞の論調には「侵略主義、軍国主義の宣伝紙であり、とてもジャーナリズムとは言えない」と振り返る。根津教授は、こうした幼少期からの懐疑的思考も後の記者・横田の基盤となったと指摘した。

共同との不思議な縁

戦時中、横田はご多分に漏れず軍国少年だった。1944年、横田は競争率32倍の難関をくぐって陸軍幼年学校に入学するが、日本は敗戦。当時の横田は「右翼的というより『ウヨク』そのもの」と自ら記す通りで、「我ら若人は目前の自由・平等・民主等の甘言に迷はされず、二・二六先輩の心を継ぎ、国家の根本的改造を為すの要がある」と自著に記している。

そんな横田が変わっていくのは甲府中学校時代に巡り合った担任教師や同校OBの石橋湛山との出会いだった。担任は日本文学や学問の面白さを伝え、湛山からは講演で「アメリカなにするものぞ、日本人自らが国を再建する力をもっている」というメッセージを受け取った。

47年、松本高等学校に入学した横田は夏に東京裁判を傍聴。2年時には映画鑑賞にのめり込むが、論文は「多感な時期に映画作品に耽(ふけ)ったことは『体に染みついた国家主義、国粋主義』の相対化に結びついたのは間違いなかろう」と評している。50年、横田は東大文学部国史学科に入学。当時の総長・南原繁の理想主義に共感しつつ反米感情からデモにも参加するようになる。

そして画期となったのが51年7月に東大構内で見つけた共同通信のアルバイト募集の張り紙だ。これには10人の応募があり、竹ひごのくじを引き当てたのが横田だった。バイトは東亜部の雑用係。サンフランシスコ講和会議を前に海外特派員や政治部などと緊迫した原稿のやり取りをみて、横田は報道現場に魅力を覚えていく。

共同と横田は相性が良かった。52年1月、韓国が李承晩ラインの設定を発表。だが夜遅かったため図解を書く部署のスタッフは帰宅してしまい整理部長が困り果てている中で、横田は「私がやってみましょうか」と名乗り出た。陸軍幼年学校時代に図解の基礎を習っていたことが奏功し、横田の図解は全国の新聞社に電送された。

相前後してスターリンが共同にメッセージを送り、講和条約発効2日後、共同記者が日本メディアとして戦後初めてモスクワ入りを果たした。「『共同はすごい、こういうところで働きたい』という熱い思いが高まってきた」と横田は自著に記している。

横田はその後、共同労組とともにメーデーに参加したり、社内の勉強会にも誘われたりするなど交流を深めていく。当然就職先も共同を志望したが、合格したのは読売新聞だけだった。ところがバイトで知り合った共同幹部から「補欠の3番で残っているから読売を断れ」と諭され、何とか滑り込んだという。

在京沖縄記者会立ち上げ

最初の配属先・京都支局を経て大阪労農記者クラブに所属した直後、沖縄報道との接点が訪れる。1955年1月13日付の朝日新聞だ。「米軍の『沖縄民政』を衝く」と題した記事は、米軍による農地収奪や人権無視の圧政を初めて具体的に指摘し、後に横田を沖縄報道に導くことになる。当時の思いを「その事実の持つ重みに感動し興奮した」と記している。

横田は政治部に上がると岸信介首相の総理番を務める一方、「自ら志願して沖縄担当にしてもらい、岸番にあたらない時間などに関連取材を行った」。そして南方同胞援護会(戦後処理を目的に設立)や社会党系の運動団体である沖縄問題解決国民運動連絡会議に出入りし、人脈と知見を深めていく。

沖縄問題が政治的にクローズアップされる中で、在京主要メディアの那覇支局開設への動きも活発になった。先陣を切ったのは58年6月に開設した時事通信だった。支局設置の許認可権は米側にあり、時事の長谷川才次社長の広い米人脈が奏功したといわれている。

横田が59年4月に宏池会(池田派)担当となった直後の5月、ブース高等弁務官が復帰運動や日本人記者の取材活動をスパイ行為として取り締まる新刑法を発布(後に無期限延期)。これが全国的なニュースとなり、横田は「東京にも(沖縄に関する)取材機関が必要だ」と考え「顔見知りになっていた各社の沖縄報道に関係する記者と話し合い、横断的組織の具体的相談を行った」。そして9月、「在京沖縄記者会」(加盟27社)が発足、横田は幹事の一人となり、その後、沖縄駐在期間を除き、72年4月の記者会解散まで幹事を務めることになる。

論文では、この時期にアカデミズムの世界も沖縄問題への関心が高まったことを詳述している。それによると、沖縄記者会が発足した同じ9月には中野好夫東大教授らが沖縄資料センターを創設。勉強会に招かれた横田に対し中野は次のような言葉を掛けたという。

「われわれがやらねば沖縄は永久に返ってこないかもしれない。センターはこれから本腰を入れて資料を集める。君たちはそれを駆使して沖縄問題を縦横無尽に書いてほしい。資料センターと記者会は車の両輪の関係にあるんだよ」

記者会は60年4月、自民、社会、民社、共産各党の沖縄対策責任者を招き合同記者会見を実施した。各党が同じ場で沖縄政策を討論するのは初めて。秋には全国会議員への沖縄アンケートを行うなど活動を活発化させていった。

(上)の末尾で根津教授は「横田が植民地下で培ったいびつながらも広い視野と、軍国少年として抱いた反米感情は、米施政権下での沖縄報道への関心を強め、沖縄に対する共感を深めていく感度に影響したと思われる」と総括している。(以下次号)

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