AIは「知性構造革命」の起爆剤 〜「受け手」から「獲り手」へ。マスメディアからインテリジェンスの時代へ〜
新聞社や通信社は、「情報産業」(Information Industry)とされている。ところが現在は「情報」というものをしっかりつかんでいない。それが現在の新聞の販売部数の衰退の根幹にある。
生成AIの驚異的な進歩で、パソコンとインターネットによる情報革命第1期は、第2期に突入した。これは本質的な変化であって、従来の見方では対応できない「知性構造革命」だと言える。それに迫りたい。
「情報」をInformationと訳していいか?
今国会で、「国家情報局」の新設が審議されている。
米国の中央情報局(CIA)はCentral Intelligence Agencyである。これに倣えば、国家情報局はNational Intelligence Agencyになるだろう。「情報」は普通Informationと訳される。日本人はInformationとIntelligenceの差をほとんど理解していない。
Informationは、相手の心に形作る(Inform)であって、「世界についての断片」を情報として伝えることを意味する。発信サイドに重心がある。ところがIntelligenceは「叡智」と訳され、「断片を統合して、意味を見出し、未来を判断する力」なのだ。これは情報の受け手側の能力に焦点を当てている。
新聞は、産業革命頃の英国で、紳士の情報源として生まれたとされ、20世紀に全盛期を迎えるが、これはInformationの文脈で生まれた現象だった。「情報は売り物になる」ことに気付いたロイターなどの業者が、通信社、新聞社を作って業容を拡大していった。
筆者は文明史の研究者だが、文明の基盤は技術である。電信・電話などの通信手段が発達し、高速輪転機、汽車やトラックによる配送という技術的な手段が整ったことでマスメディアが全盛期になった。
ところが、インターネットの普及は、その流れを逆流させる。
「1対多」のメディア構造が「多対1」になる。ユーザーは画一的な情報を受けるのではなく、選択的に自分の好きな情報を取りに行く。「受け手」ではなく「獲り手」になっているのだ。
たった一言が人生を変えた経験
筆者は、2003年に慶應義塾大学の教授になって以来、幾つもの大学で授業・講義をしてきた。学生たちはそれを聞いてレポートに反映し、単位取得を目指す。ところが、1千人に1人か2人の割合で、すごいことが起こる。筆者の言葉が学生の人生を変えてしまうのだ。
最近では、大阪の私立大学で、「本を読むのは面白い。世の中を見る目が変わるからだ。農耕の発明は人類の進歩だと教科書には書いてあるが、身分制社会が始まり、戦争が起きるようになったのは農耕革命の結果。それはユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』という本に書かれている」と話した。
こういう話をしても、その本を読む学生は1割もいないのが普通だ。ところが、「本なんて、1年に2、3冊しか読まない」というM君が、この本を読み、読書に目覚めた。週に2─3冊の本を読み、文化人類学の学者になる夢を持った。残念ながら大学院受験に失敗し、中学の英語教師になったが、職務の初日に「本を読むことの楽しさ」を生徒に話したという。
2003年、初めて慶應のSFC(湘南藤沢キャンパス)で講義をした時、筆者は「情報無価値説」を話した。「情報に価値があるというのは、情報を売っている業者のセールストークで、ほとんどの情報には価値がない」というものだった。
それに興味を持った学生が、授業後に話に来た。「そこそこの会社でサラリーマンになる」という彼に「面白い論文を書いて評判になると、世界が変わる」と話したら、にわかに「研究者になりたい。先生がリーダーになって裏ゼミ(単位の出ない自主勉強会)を開いてください」と言われた。それから1年半、彼と数人の学生で「次世代メディア研究会」を続け、その後、彼(I君)は東京大学で博士号を取り、現在は一橋大学教授で、政府の委員会などで活躍している。
筆者は、授業で報酬(最近はボランティア)をもらうことより、自分の講義からM君やI君のような学生が人生を変えたことが何百倍もうれしい。情報の本質がここにある。
ボトルネックは「配信」から「受容・分析」へ
人間は「判断する動物」である。他の動物は「捕食」が大半だが、人間は生活の中で、さまざまな判断をしている。それが情報を求める理由だ。その欲求と技術の到達点として、同一の情報を、何百万、何千万、何億もの読者、視聴者に届けるマスメディアが進化し、定着した。
ビジネスの要諦は「ボトルネックを押さえろ」である。情報が希少な時代、情報源である政府や警察などに記者を常駐させて発信源を押さえる戦略は的を得ていた。ところが、インターネットの普及で情報氾濫時代に入ると、情報はどこからでも得られる。
旧来、権力はメディアを抱き込もうとしていた。記者会見での印象が大事だった。ところがトランプ米大統領のようにSNSで直接情報を出すスタイルが広がり、ボトルネック掌握作戦は効力を失った。
現在のボトルネックは、視聴者・読者の認知である。しかも情報は少ない発信源からの拡散型ではなく、個人が興味を持ってアクセスする「捕獲型」に変わった。情報は出せば出すほど価値が下がるという時代に入っている。まさにInformation型からIntelligence型への変化だ。
図1

もともと、情報は、判断の材料にならないものは無価値だった。ところが、Informationに取り憑(つ)かれたメディアは情報=コンテンツの増産で対応しようとしていた。ということは、「無駄な情報の氾濫」でしかなかった。そこで、Intelligence能力が問われることになった。
AIはArtificial Intelligenceの略である。Informationではない。ここが非常に重要だ。
情報それ自体は、砂浜の砂粒のようなものだ。
メディアは、その砂粒を無限に供給している。供給すればするほど単価が下がる。AIはその砂粒の中から、宝石を拾い出す手段である。かつては情報の供給が貴重だったが、今は逆になっている。それが、Informationの時代からIntelligenceの時代への世代交代なのだ。
1980年代に、ある新聞社の編集委員が、「情報革命で情報の価値が上がり、情報産業が繁栄する」という話を本に書いていた。筆者は、「情報革命で情報の単価が下がる」と反論した。産業革命で綿織物の大量生産が可能になり、単価が大幅に下がった。筆者の予想通りのことが進行した。
真の情報の力は変わらない
メディアが吐き出す情報がすべて低価値だというわけではない。
1972年にワシントン・ポストが報じたウォーターゲート事件や、74年に文藝春秋に掲載された立花隆の「田中角栄研究〜その金脈と人脈」という記事は、政権トップを辞任に追い込んだ見事なスクープだった。それはまさにメディアの力にほかならない。
日本経済新聞社の杉田亮毅元社長が「わが社には1500人の記者がいるが、そのうち独立してもやっていけるほどの実力のある記者が30人もいれば、会社は維持できる」と語ったことがある。
報道の仕事は、「何を報じるべきか」「何が真実か」と格闘する作業だ。しかし、かなりの仕事は発表資料の書き直し、談話の文字化などの定型的な作業である。記者魂を持って、真実に迫る記者は1割もいない。そういう点で、新聞記者の仕事もかなりの部分、AIに代替されそうだ。
米国で調査報道に特化し、ピュリツァー賞の常連になった報道機関、プロパブリカはスタッフが50人ほどだ。日本の大手紙のように数千人の社員を抱えて採算を取るのは難しいと言える。大艦巨砲時代の「戦艦大和」のような巨大組織でメディアを維持するのは過去の時代になりつつある。日本でもプロパブリカのようなジャーナリスト集団がネット上で活躍する時代が来そうだ。
「獲り手」主導の情報社会へ
AIは、記者の取材・執筆のかなりの部分を代替していくだろう。しかし、AIの興隆の本質は、主導権の逆転である。
情報が希少な社会では、配信側に主導権があったが、情報が過剰な時代には、受信側=獲り手に主導権が移る。
流通産業を見ると、昔は商店街に八百屋、肉屋、魚屋などが並んでいた。それが大型スーパーによってワンストップショッピングになり、さらにネットスーパーに移行している。これも売り手から買い手への主導権の移動だ。情報社会でのAIの役割はそこにある。ブロードキャストが主軸だったのに、ブロードキャッチが台頭し、主導権を握ろうとしている。
図2

新聞は、いわば学校外の「教師」の位置にあった。筆者は子供の頃、社会科はいつもクラストップだったが、小学5年から新聞を読むのが日課だったからだ。
拡散型情報社会では、図2のように、新聞は上位にあり、読者に知識を与える存在だった。ところが、現代は情報が氾濫し、ほとんどの情報はインターネットで得られる。教師のように「知っている」という意味で優位を保つことはもうできていない。
一方で、家族で新聞を読み、テレビを見るスタイルが、スマホをキーに個別視聴の時代に変わっている。
こうなれば、重点は「獲り手」側に移る。どのような情報を受容すべきか、何が本質なのかをアドバイスする部分が現代社会に欠けている。人々が勝手に情報を出し、フェイクニュースが氾濫する時代に、案内役が不足している。ニュースを取材・報道することより、報道の真贋(しんがん)を見抜き、選別することが一層重要になっている。ここが情報社会の急所であり、従来のメディアの見識が必要とされているポジションだ。
5月9日のNHK Eテレで、神奈川県大和市の引地台中学校の「学びの多様化学校」が特集されていた。ここでは、「子どもを変えようとするのではなく、先生が変わること」が求められていた。登校拒否の子供に上から教えるのではなく、「同じ人間として向き合っていく」を大事にしている。
「オレたちは知っている。読者に教えてやる」ではなく、読者と一緒に考える姿勢が記者に求められる時代になっているのだ。
「問う力」が重要になる
「啐啄(そったく)」という言葉がある。ニワトリの雛が、卵から出ようと、内側から卵の殻をつつき始めると、親鳥が外側からつついて、雛が誕生するということだ。冒頭に書いたM君やI君の話はそれだ。
本人に潜在的な「求める気持ち」がなければ、外部からどんなに刺激しても雛は生まれない。
Intelligenceの要諦はそこだ。
情報はふんだんにある。そこから意味のある情報を取り出すには、感受性が必要だ。これからの人間に求められる素養は、感受性である。
生成AIに自発性や感受性はない。言われたことに反応するだけだ。
メディアの価値は「配信力」から「判断力」へ
20世紀の新聞社の強みは、「取材網、印刷、配送、編成権」だった。要するに「大量配信能力」だった。しかしインターネットで、これは崩壊した。さらに生成AIで、「要約、翻訳、記事生成、整理」まで自動化される。つまり、「情報加工業」としての新聞社の優位は急速に失われる。
では何が残るのか?
残るのは、「問題設定力、真偽判定、文脈理解、調査報道、社会的信頼、コミュニティー形成」といったところだ。つまり、「情報を配る」から「社会の知性を支える」への転換が求められているのだ。
要約すると、20世紀メディアは、「大衆への一方向配信」だった。しかしAI時代には、「読者同士の知的相互作用」が価値になる。つまり、読者を〝消費者〟として扱うのではなく〝参加者〟として扱うことだ。ニュースを提供し、「注意を奪うこと」ではなく、「社会の判断力を育てること」をポイントにすべきだ。
AI時代に必要なのは、情報を浴びる人ではない。「自ら問い、自ら獲り、自ら判断する人間」である。メディアの使命もまた、そのような知性を育てることにある。
アテンションエコノミーが「怒り、分断、欲望、刺激」を煽(あお)って社会の知性を破壊しているからこそ、メディアは敢然と「良識の拠点」を目指すべきだと考える。事件・事故を取材して報道するという「単機能」を脱して、読者とともに問題に立ち向かうというスタンスが、今後のメディアの立ち位置と考える。
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この寄稿は、筆者が生成AI=ChatGPTに着想を入力し、論理構成などについて対話しながら書き上げた。ChatGPTの実力は素晴らしく、快適に作業できた。