トランプ米大統領が、2月28日、突如イランに対する攻撃を開始してから3カ月が過ぎた。11月の米中間選挙が迫る中、ガソリン価格の高騰で支持率の低迷に直面するトランプ氏は、厄介な相手イランと早くけりをつけてしまいたいはずだ。

ところが事態はイランの体制転換を狙っていた同氏の当初の思惑からすると、予想外の展開を見せている。イラン側が驚くほどの粘り強さを発揮し、一歩も引かない。特にイスラム体制を支える精鋭軍事組織「革命防衛隊」の勢いが強まったことで、イランは今後、米イスラエルに対して一段と強硬な姿勢を取るものと予想される。

トランプ大統領の誤算

トランプ大統領は開戦の時点で、今ならイランに勝てると考えていたフシがある。米国は昨年6月にもイスラエルと共にイランを攻撃し、制空権を奪った。イランでは昨年末から今年初めにかけて、前例のない大規模な反政府デモが広がっていた。イスラム体制は動揺しているように見えた。

そのさなか、米軍は年明けに南米のベネズエラを攻撃し、マドゥロ大統領を拘束した。トランプ氏はイランもベネズエラのように簡単に始末できると考えたのではないか。しかし、そのシナリオはあまりに楽観的だった。

戦闘が終結しても、それで米イランの対立が終わるわけではない。なぜなら、米イスラエルと犬猿の仲のイスラム体制が転換されずに、これからも残るからだ。しかも、その体制を武力で支えてきた革命防衛隊が、今回の戦争の前よりも、もっと強大化していくはずなのだ。

実際、最高指導者ハメネイ師が戦争初日に殺された後、後継者となった息子のモジタバ・ハメネイ師は革命防衛隊の出身だ。米国との交渉を担っているガリバフ国会議長も、かつて防衛隊の司令官を務めていた。この点は特に注目される。

革命防衛隊は、イスラム体制のトップに自分たちと同じ釜の飯を食った人を送り込むことに成功したわけだ。したがって、軍事面だけではなく、政治面でも、防衛隊主導の新たな状況が生まれることになる。

だからイランがますます強硬になることは恐らく間違いない。

石油の大動脈ホルムズ海峡で通航料をピンハネするという発想も、恐らく革命防衛隊から出てきた。こういう一筋縄ではいかない軍事組織を今回、ますます増長させた。いわば「パンドラの箱」を開けてしまったわけであり、これはトランプ氏にとって重大な誤算だったと言えそうだ。

こうしてイラン側が一段と強硬な姿勢を取れば、一方の米国やイスラエルも黙ってはいないはずだ。だから、いつ大規模な戦闘が再燃してもおかしくない一触即発の状況は、これからも変わらないことになる。

このシナリオ通りになれば、石油、天然ガスを中東に大きく依存してきた日本にとっても、エネルギーリスクが当分解消されないという話になる。このように考えてみると、どうも、今後のイラン情勢は憂鬱(ゆううつ)な材料ばかりのように見える。

イスラム体制への不信感

ただ、ここでもう一つ、極めて重要な点がある。それはイスラム体制と革命防衛隊がどれだけ強固でも、実はイラン国民多数からは支持されていないという問題だ。

この保守強硬派の人たちが宗教イデオロギーに基づく結束を保っているからこそ、世界最強の米軍の攻撃にも耐えてきたわけだが、イラン国民の中では、彼らを支持しているのは少数派なのだ。多くのイラン人は、もうとっくにイスラム体制を見放しているように思われる。

私がインタビューした日本在住のイラン人女性ソマイエ・メヘリさんは、イスラム体制による女性の服装規制に反対するデモに参加してきた。いくら体制が弾圧を強めても堂々と抗議の声を上げた。そういう女性や若者が近年、どんどん増えてきている。

これこそ、これからのイランと世界にとって、未来への希望につながる状況だ。

実際、イスラム体制の支持者がイランで少数派であることを示すデータがある。

オランダに拠点を置く独立調査機関のGAMAAN(ギャマーン)が、2021年から25年まで、ほぼ1年ごとにイラン国内で、どのような体制を望むのかの政治志向を聞く世論調査を行った。

「改革を前提とする体制転換」、「イスラム共和国からの構造転換と移行」、「イスラム共和国の枠内での漸進的な改革」、「イスラム共和国と最高指導者の原則」という四つの選択肢の中から、自分の志向に最も近いものを選んでもらった。


一番最近の調査は、昨年9月にイラン国内の3万人以上を対象に行われた。それを見ると一目瞭然だが、イスラム体制を支持している人たち、つまり「イスラム共和国と最高指導者の原則」を選んだのはわずか11・8%だった。「イスラム共和国の枠内での漸進的な改革」を選んだ12・5%と合わせても24・3%にしかならない。

残りの7割以上が、体制そのものへの不信感を抱いていることが分かる。中でも体制転換を明確に期待している人たち、つまり「改革を前提とする体制転換」を選んだ人が41・3%で一番多い。

一部には米イスラエルによるプロパガンダではないかという専門家もいる。つまり、「イランの市民が自由を求め、それをイスラム体制が弾圧している」という情報を意図的に拡散していて、それにイランの国民の一部が踊らされているという見方だ。

もしかすると、そういう側面もあるのかもしれない。恐らく米中央情報局(CIA)やイスラエルの情報機関モサドなどは、イランの体制転換を実現するためにあらゆる手を使っているはずだ。

ただ、イスラム体制への不信感に関しては私もたびたび現地で取材する中で、かなり前からイラン人多数が口にしていた。米イスラエルの思惑とは別に、国民自身の中に現体制を何とか変えたいという切実な思いがあるのだと考えている。

残念なことに、昨今のイラン報道はホルムズ海峡の封鎖問題ばかりに焦点が当てられ、肝心のイランの国民の声はほとんど伝わってきていないと思う。

その大きな理由の一つは、2月28日のイラン攻撃開始後、イラン当局が国内のインターネットを全面的に遮断したからだ。いまだに一部を除いてネットは遮断されたままになっている。この厳しい言論統制下では、市民の本当の声を外部のメディアが報じることは難しいのだろう。

イラン国民自身も、基本的には体制側の情報しか入手できない。だから多くの人は正確な戦況さえつかんでない。いわば太平洋戦争中の日本のようなものだ。

実はこうした統制は今に始まったことではない。イラン当局はかなり前からインターネットとかスマートフォンを規制してきた。外国の情報へのアクセスを制限し、政府が承認したウェブサイトだけを閲覧可能にする「国家情報ネットワーク計画」が2012年から始まった。昨年6月のイラン攻撃のときも、年末からの反政府デモのときもネットが遮断された。一般市民の情報源は国営テレビくらいしかない。

規制を回避できる「仮想プライベートネットワーク」(VPN)が闇で出回っている。しかしこれは庶民には高価で手が出ない。海外の親族と連絡を取るために、わざわざトルコとの国境まで出てネットに接続する人も増えているという。

こうした中、英紙インディペンデントが4月18日、イランに住む市民数人から得たという希少な証言を報じた。これを読むと、市民の本音がうかがえるので、その証言を紹介したい。

子供を持つ母親ザフラさん(仮名)は、アメリカとイランが2週間の停戦に合意する直前の4月8日未明、国内にある自宅で目が覚めた。トランプ大統領が、イランのすべての橋や発電所を破壊すると言っていたので、電気が通じていることを示すブーンという音が聞こえて神に感謝した。だがそう感じたのは一瞬で、すぐ襲ってきたのは恐怖感だった。「彼らイスラム体制の支配下で、これから私たちに何が起きるのか」と考えざるを得なかった。

2人目の男性のレザさん(仮名)も、トランプ氏がイランを「石器時代に戻す」と威嚇していたため、何も起きなかったことに一息ついた。一方で、このままイランの国民のことを考えずに合意が結ばれてしまうのではないかと不安になった。レザさんの周りの人も、大半は何も変わらないまま終戦になるのではないかと落胆しているという。人権、市民の自由、外の世界との交流が欲しいと話していたそうだ。

3人目の医療職の男性アミルさん(仮名)は「この体制がどんな怪物になるのかが怖い」と述べ、「何の自由もなくなっていく。私たちは窒息してしまう」と悲観した。

この報道の通りだとすると、米軍の攻撃を受けても体制が生き残っていることに、イラン国民は面食らっているらしい。

では、いつから今の体制への不信感が生まれたのか。ここで私の取材メモを基にイランの現代史を振り返ってみたい。

イラン革命の本質

イラン人の中東専門家で神奈川大学非常勤講師ケイワン・アブドリさんに話を聞いた。47年前、1979年のイラン革命の成功を現地で目撃した人だ。


ケイワン・アブドリさん=2023年9月、東京都新宿区(筆者撮影)

ケイワン・アブドリさん=2023年9月、東京都新宿区(筆者撮影)

ケイワンさんは、そもそも革命が成功したときから、その成果を宗教界に独り占めにされているという苦い思いが国民の間にあったと話した。

あのイラン革命のシンボルとして、国民各層を結集に導いた立役者は確かにホメイニ師だった。ただし、そのとき多くのイラン人が団結したのは、独裁的なパーレビ王政を倒せばイランはもっと自由な国になるという期待があったからだった。ところが、革命後に待ち受けていたのは、王政よりももっと抑圧的な宗教体制だった。

例えば、今では想像できないが、革命前のテヘランには一杯飲み屋が立ち並んでいた。イスラム体制は当然ながら、飲酒をご法度にした。私はあるとき、2008年ごろだが、テヘランの街角で若いイラン人のカップルから、うちへワインを飲みに来ないかと誘われたことがある。

行ってみると、出してくれたグラスには確かに紫色の液体が入っていた。どうやって手に入れたのか尋ねると、「家の庭でブドウを栽培した」と言う。味は素人の域を出なかったが、このカップルがどうしても酒を飲みたいと考えていたことがよく分かる。

11世紀のペルシャの詩人オマル・ハイヤームは「ルバイヤート」という詩集の中で「酒を飲め、君、つまらぬことを言わぬがよい」と歌っている。酒をこよなく愛するペルシャ文明の末裔(まつえい)たちは、それが禁じられてから何十年が過ぎても、まだなんとかして飲みたいと必死になっているのだ。

ケイワンさんは革命当時、中学生だった。家族と共にテヘランに住み、イスラム化に至る革命の一部始終を目の当たりにした。父親は建設会社に勤める世俗的な中間層だったが、革命のあおりで仕事を失った。

4人兄弟のうちカナダと日本へそれぞれ留学していた一番上と2番目の兄は帰国できなくなった。3番目のケイワンさんも結局、イランを逃れて日本へ留学した。

ケイワンさんはこう振り返っている。「私は革命当時、中学1年生だったが、あまりにも大変な出来事で、家族も巻き込まれたから、すべて覚えている。私たちはあの革命で人生を台無しにされた」と。

女性の服装について言えば、革命前はイスラム女性が頭に巻くスカーフ、ヒジャブをかぶるべきかどうかは国家が強制することではないと多くの人が考えていた。

人口9200万人のイランの大半はムスリムであり、女性がヒジャブを着用する習慣が古くからあったのは事実だ。

例えばケイワンさんの母は革命前にも近所の肉屋とかパン屋に行くときは必ずヒジャブを着用していたという。ただ、車で遠出したりパーティーに出席したりするときは周りに合わせて、ヒジャブを外した。

誰に言われなくても、自分の意思で一定の戒律を守っていた。どんな服装をするかは自らの判断で決めた。ケイワンさんは「宗教と生活の関係は多様だったし、以前はもっと寛容だった」と証言している。

79年2月1日、ホメイニ師が亡命先のフランスから凱旋帰国した。そのときケイワンさんの周りの大人たちは、こうささやいていた。「アホンド(ペルシャ語でイスラム教シーア派の導師)が、本当に政治権力を握るのか」。政教一致の体制はイランでは前代未聞だった。

ケイワンさんはさらにこう話している。「アホンドという言葉には、尊敬の念よりも少し軽蔑が込められている。ホメイニを革命の指導者とは認めるけれど、宗教の勉強しかしていないアホンドは新国家のリーダーにはなれない、なれるわけはないだろうと。それでホメイニの方も本当の意図を最後まで隠していた」

イランの国教はシーア派の中の「12イマーム派」だ。この宗派では、預言者ムハンマドとの血縁がある後継者のイマームが、その12代目でお隠れになったとみなされている。そして、イマームが再臨するまで、イスラム法学者が世俗の政権を監視するというのが伝統的な解釈だった。

ところがホメイニ師は「ベラヤテファギーフ」つまり「イスラム法学者による統治」をもくろんでいた。監視のみならず自ら政治指導者として統治し、イマームの代行を果たすべきだということであり、この点がホメイニ思想の急進的なところだ。

ホメイニ師は帰国後も本心を明かさなかった。イスラム共和国樹立の是非を79年3月、国民投票にかけて承認を得てからも、憲法草案には最初はこのベラヤテファギーフの条項は入れなかった。

その5カ月後の79年8月に自派のイスラム共和党が憲法制定の専門家会議で多数派を握ったとき、突如このベラヤテファギーフの条項が草案に書き加えられた。一般のイラン国民はその言葉の意味すら知らず、皆びっくりしていたという。

イラン国民は長らく西洋文化に慣れ親しんでいたから、それを突然ひっくり返すことには当時のバザルガン首相をはじめ政権内の穏健派からも反対論が噴出した。

そこでホメイニ師が反対論をそらせるために利用したのが、テヘランの米大使館人質事件だった。79年11月から444日間、ホメイニ派が大使館員多数を人質に取った衝撃的な事件で、王政を支えていた米国への国民の反感が意図的にあおられた。

こうして矛先が外へそれる中、革命指導部は79年12月、国民投票を行った。そしてベラヤテファギーフの条項を含む新憲法の承認を得た。

「あれよあれよという間に、宗教体制ができてしまった」とケイワンさんは言う。つまりこの体制はホメイニ師の思惑で強引に樹立された。だから最初から、その正統性には疑問符が付けられていたことになる。

ホメイニ死去後の変化

トランプが今回イラン攻撃を決断した裏には、おそらく47年前の大使館人質事件への米国人としての恨みもあったはずだ。

この人質事件を機に、米国ではイランのイメージが180度変わった。反イランの世論が急速に高まっていく。

当時、米国に留学していた駐日パレスチナ代表部のワリード・アリ・シアム大使は「あのころはイスラム教徒というだけで大変な差別を受けた」と話している。

一方、イランでも国民の体制への不信感がいつまでも消えなかった。革命直後の80年にイラン・イラク戦争が勃発し、国民の目は再び外に向けられた。しかし8年にわたる戦争が88年に終わり、翌年ホメイニ師も亡くなった。カリスマ性に欠ける保守強硬派のハメネイ師が最高指導者を継ぐと、息苦しい抑圧体制への国民の不満が一層高まっていった。

それが顕著に現れたのが、私も現地で取材していた97年5月23日のイラン大統領選だった。ハメネイ師の推す保守派候補のナテクヌーリ師が、改革派のハタミ師に大敗した。投票総数の69%、2008万票の獲得を許した。

このとき私は投票日の2日前にカイロからテヘランに入った。保守的な地元紙の世論調査は一様に「ナテクヌーリ師大幅リード」だった。テヘランに支局がある日本の大手メディアもそれに誘導されたのか、早々と「ナテクヌーリ師優勢」、「保守派候補の優位動かず」と前打ちしていた。

だが実際に現地で取材してみると、どうも様子が違う。驚いたのは、街角で市民にインタビューをすると大半が「ハタミ師に投票する」と私に答えたことだ。

街角ではナテクヌーリ師のポスターが何枚も無残に引き裂かれていた。ハメネイ師のその肖像画を指して「あいつは嫌いだ」と吐き捨てる若者もいた。

そのとき面白い経験をした。市中心部にあるテヘラン大学の門の前で、ハタミ師支持のビラを配っていた学生がいた。その学生と話すと、「世論調査なんか信用してはいけない。自分たちで調べたから、その数字を教えてあげる」と言う。

そこで教室の一室に通され、「学生版」の世論調査を見せてもらった。私は目を疑った。「ハタミ師に投票する」という回答が7割に上っていた。開票結果は本当に学生の世論調査の通りになった。

その後、改革派は2000年の総選挙でも7割を得票した。01年大統領選挙ではハタミ師が77%を得て再選された。先ほどのGAMAANの世論調査も同じくらいの数字だ。つまりイスラム体制に不信感を抱くイラン国民が7割前後を占める状況は今も昔も変わっていないことになる。

ハタミ師は大統領に就任すると、市民の権利と自由を尊重すると宣言し、体制の枠内で改革を進めようとした。

新しい新聞や雑誌が続々と発刊された。女性の服装規制も緩んだ。「テヘランの春」と呼ばれる開放的な社会風潮が現出した。

ところが、それはまさに束の間だった。保守派が支配する国会、司法、治安当局がハタミ政権の発足直後から露骨な妨害をやり始めた。改革派の新聞や雑誌は次々に発行禁止になった。政治集会の規制緩和などの自由化を進めていた当時のヌーリ内務大臣は国会で罷免された上、禁錮5年の実刑判決を受けた。

このとき、とりわけ積極的に弾圧に動いたのが、革命防衛隊だ。99年7月、テヘラン大学で新聞発禁の抗議集会を開いていた学生たちを防衛隊の武装組織バシージが襲撃して死傷者が続出した。

これに対し、テヘラン市民も合流して1万人規模の抗議デモが5日間続いた。防衛隊はハメネイ師から命令を受け、そのデモ隊を徹底的に鎮圧した。

そもそもこの革命防衛隊がいつごろできたかというと、イラン革命の成功から2カ月後の79年4月、武装闘争の経験を持つ複数の若者の集団をホメイニ師が統合して結成された経緯がある。その任務は反革命分子の弾圧、対外防衛だった。

また注目されるのは、89年にホメイニ師が亡くなった後、その後を継いだハメネイ師の親衛隊としてのし上がったことだ。そして90年代以降、イランの経済界にまで革命防衛隊が進出していく。その傘下の企業は道路や鉄道などの公共事業のほか、石油、ガス、対外貿易、金融、情報産業まで広範囲にわたる。財力を蓄え、巨大な利権集団を形成している。

対外活動でも傘下の「コッズ部隊」を中心に、レバノンのシーア派組織ヒズボラのてこ入れやシリア内戦に関与するなど、今やイラン外務省以上に革命防衛隊が外交の実権を握っているようだ。

そして革命防衛隊出身のモジタバ師が体制の頂点に立った。軍事、経済、外交、さらに政治、国家のあらゆる面で、今や防衛隊は絶大な影響力を持つようになった。ケイワンさんはこれを「イラン国家における軍事化の進展」と評している。

女性たちの闘い

こうしてイランは、革命防衛隊主導の新たな時代を迎えた。もっとも、イスラム体制を支持しているのは国民の少数派だ。革命防衛隊を先兵とする抑圧への反発が国民多数の間で強まり、革命を知らないSNS世代の女性や若者が声を上げ始めた。

2022年9月、ヒジャブ着用義務に反したとの理由で22歳の女性マフサ・アミニさんがテヘランで風紀警察に捕まり、不審な死を遂げた。

「警察に暴行された」と父親が訴えたのを機に、若い女性らが公然と抗議デモを開始した。「女性、命、自由」をスローガンに、SNSで不服従運動が呼び掛けられた。

その抗議デモはイラン全土に広がり、さらに世界各地で何カ月も続いた。

ソマイエ・メヘリさんも、アミニさんが亡くなった直後、東京・渋谷の国連大学の本部前で開かれた抗議集会に友人と参加した。その後、自分が先頭に立って日本で支援組織を設け、女性の自由を求める集会を毎月1、2回開催してきた。


ソマイエ・メヘリさん=2023年10月、東京都目黒区(筆者撮影)

ソマイエ・メヘリさん=2023年10月、東京都目黒区(筆者撮影)

メヘリさんは私にこう訴えた。「日本なら警察は市民を助けてくれる。けれどイランは逆で、女性を脅し暴力を振るうのが警察です」。アミニさんの事件以来、イランでは多くの女性たちがヒジャブ着用強制を無視している。女子学生は自分たちがヒジャブを外して踊る動画をSNSで流した。

イランにいるメヘリさんの妹も、外出するときには誰が見ていてもヒジャブは着けないという抵抗運動を一人で始めた。

しかし、その後1年間で女性の服装規制に反対するデモ参加者のうち500人以上が治安部隊との衝突で死亡し、2万人が拘束された。公開処刑された人もいる。

女性の奮闘に呼応するかのように、昨年12月末、それまでイスラム体制を支えてきたテヘランのバザールの商人たちが抗議デモに立ち上がった。通貨リアルの暴落による輸入商品急騰に不満を爆発させた。

それを機に、中部イスファハンや東部マシャドでも抗議行動のうねりが広がった。背景には、国家経済を牛耳り、国庫収入を兵器開発や対外活動に流用している革命防衛隊への反発もあったといわれる。

イスラム体制は再びデモ隊を徹底的に鎮圧した。警官隊との衝突の死者は、当局の発表だけで3000人を超えている。人権団体の調査では7000人が殺されたという。これだけ大規模な弾圧は、イラン革命以来初めてだ。それだけ一般国民の抗議の動きが強まってきたことは間違いない。

メヘリさんは、こう予言した。「若い世代は勇敢だから、いずれ本当の革命を起こす。それが1年後か10年後か20年後かは分からない。でも時間の問題です」。そして、「イスラム体制がある限り、イラン国民にとって何も変わらないことを世界が理解してほしい」と訴えている。

米国やイスラエルと衝突を繰り返す保守強硬派ではなく、もっと穏健で人権を尊重する民主的な体制を、多くのイラン国民が求めているのだと思われる。

日本に住んでいる別のイラン人の学者は私の取材に対し、こう言っていた。「一番望ましいのは、今の体制を維持しながらも、少しずつ宗教勢力が政治経済から手を引いて、一般の人に任せていく、普通の国になることしかないのではないか」と。

確かにそうなれば中東全体がもっと安定するのではないか。それが日本と世界にとっても好ましい方向だと考えている。

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