戦争の拡大につれ強まる国策への傾斜 ネット公開した「同盟通信社報」

明治後期に発行が始まったという企業の社内報は、従業員に向けた経営理念の発信の場であり、社内の家族的融和に向けた情報共有の場でもあった。それが戦争の深みに飲み込まれる昭和戦前期になると、国家の要求を背景に軍需物資の増産や従業員の戦意を高揚させる記事が幅を利かせるように変わっていく。1936(昭和11)年に発足した同盟通信社が発行した社内報がたどった道も同じだった。

社内報「同盟通信社報」の創刊号が発行されたのは36年11月28日。8㌻建ての紙面のうち1面から3面までを使って、同月9日に広田弘毅首相ら政財界の名士を帝国ホテルに招いた、同盟創立と岩永裕吉社長就任の披露宴の模様を伝えている。4面以降には人事異動や職員の訃報があり、最終面は役員の顔写真と主要職場のスナップで埋めた。社報としては「らしい」作りだ。

それにしても同社の発足は1月1日。お披露目まで1年近くというのは奇異だが、これこそが難産だった同盟の誕生を物語っている。

見切り発車の「電聯合併」

同盟が発足するまで国内通信社は、日本電報通信社(電通=現在の電通の前身)と新聞聯合社(聯合)が激しい取材競争を演じていた。陸軍が電通に肩入れし、外務省は聯合に補助金を交付していた。満州事変以来、厳しい国際世論にさらされていた政府は、対外発信の一元化と強化に向けて2社の合併を促した。一方、聯合の経営トップだった岩永は世界の大通信社との対等な地位を目指して一国一通信社の構想を暖めていた。両者の思惑が一致して、同盟の設立に向けた動きは加速された。

しかし電通の強い抵抗にあって合併話は進まない。仕方なく発足時の同盟は聯合の業務だけを引き継ぎ、トップには有力加盟社の代表が社長代理として就任した。広告兼業だった電通の通信社部門が同盟に合流したのは6月、岩永が理事会で初代社長に選任されたのは9月だった。政府による秘密の金銭的支援は内閣に一本化され、助成金として交付されることになった。創刊号1面にある広田と岩永が相対してあいさつする写真の広田の笑顔は、通信社統合を成し遂げた安堵の表情と見えなくもない。

1936年11月9日に帝国ホテルで開いた「同盟創立・社長就任披露宴」を伝える社内報「同盟通信社報」創刊号の1面

1936年11月9日に帝国ホテルで開いた「同盟創立・社長就任披露宴」を伝える社内報「同盟通信社報」創刊号の1面

3号(37年2月、6㌻建て)の特集は、1月の広田内閣総辞職後に組閣の大命が下った宇垣一成に陸軍が反発して組閣は頓挫、2月に林銑十郎内閣が成立するまでの政変取材記で埋め尽くされている。2、3面は両面ぶち抜きの横見出し「全同盟不眠不休十余日間に亘る政戦の跡」が躍る。5、6面には各支社局による、他紙圧倒の報告が何本も並んでいて聯合と電通の融和をたたえているようにさえ見える。

国内外の情勢は目まぐるしく変化していく。37年7月の盧溝橋事件で始まった日中戦争は12月の南京占領を経て、やがて泥沼化。国家総動員法公布(38年)、第2次世界大戦勃発(39年)、日独伊三国同盟締結(40年)があり、41年12月に太平洋戦争が始まる。

開戦後初の発行となる42年1月の「同盟通信報」(39年に改題)52号は1面に、岩永の後を継いでいた古野伊之助社長の年頭の辞を掲載している。その中で古野は「我々一億の国民は緒戦の戦果に酔ふことなく(中略)如何なる困難障碍(しょうがい)が捲起らうとも一億鉄石の決意を以てこの大東亜戦争を戦ひ抜く決意を固めなければならぬ」と戦争遂行を前面に打ち出し、「皇国日本の真意と確固不動の決意を世界に闡明(せんめい)するのは同盟以外誰もなし得ない所である。吾等の同盟は今日、この日この使命を達成するために生まれたものである」と結んだ。

後景に退く報道への姿勢

創刊号で報じたお披露目であいさつに立った岩永は「新たに設けられる通信社は何物かの御用機関と化する惧(おそれ)のある組織であってはならない。飽く迄独立不羈(どくりつふき)、ジャーナリズムの王道を闊歩(かっぽ)しうる組織とせねばならない」と曲りなりにも正論を吐いている(引用は一部旧字を新字に改めたが、ほかは原文のまま)。しかし現実には、同盟は国策への傾斜を深め、真実の報道は後景へと退いていった。

社内の催しでの古野社長の訓辞が1面に掲載されることはしばしばあったが、太平洋戦争開始後は開戦詔書が公布された日にちなんで政府が決めた毎月8日の大詔奉戴(たいしょうほうたい)日に社内で行事が開かれ、社長訓辞が社内報に載った。特に戦況が悪化してからは激しい言葉が躍るようになっていく。

1面トップに掲載された訓辞の見出しをいくつか拾ってみると、「思想戦の勝利獲得へ/日本精神の基調と家族主義」(43年6月)、「一朝ことある場合総員武装の用意あれ」(同8月)、「総員戦闘配置/敵国戦意を破砕撃滅せよ」(同10月)、「決戦段階に於ける報道戦士の覚悟」(44年2月)とある(カッコ内は発行年月)。あたかも戦場に立っているかのような言葉が並ぶ。

戦前の報道機関の社内報はほとんど公開されていないとされる。同盟の社内報に限ると3年前、出版社の要請に応じて所蔵品を貸し出し、それが復刻された。しかし、閲覧するには復刻本がある図書館を探し出して出かけるしかない。

新聞通信調査会は3月、所蔵する同盟の社内報をデジタルアーカイブ「同盟通信社資料公開サイト」で公開した。これにより国内外どこからでも24時間365日、無料で閲覧でき、ダウンロードもできることになった。同サイトでは配信記事のダイジェスト版として同盟が当時出版していた旬刊誌『同盟旬報』と後継の月刊誌『同盟時事月報』も読める。社内報と併せて読めば、同盟配信の記事の背後で社内がどのように動いていたかも分かってくる。

残念なのは今回の社内報の公開は調査会が所蔵している創刊号から44年11月発行の86号までのうち68号分のみだ。2号、6~15号、17~21号および84、85号は収集できていない。盧溝橋事件、南京占領など日中戦争初期の取材記などが載っていたかもしれない時期の号がなく、そもそも終戦後の45年10月末に解散した同盟がいつまで社内報を発行していたかも分かっていない。これらの空白をぜひ埋めていきたい。

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