『スパイたちの百年戦争(上・下)』 カルダー・ウォルトン著、松島芳彦訳
(白水社=上巻4180円、下巻4070円)


本書は、ロシア革命からウクライナ戦争に至る100年余の諜報戦を臨場感豊かに描くスパイ戦史の決定版だ。上下2巻、本文だけで600㌻を超える長編だが、米英ソのスパイが繰り広げる興味深いエピソードにあふれ、手慣れた訳で一気に読ませる。

著者は英国の情報局保安部(MI5)の公式史編さんに携わり、米ソや東欧圏の機密文書を渉猟し、近年公開された文書も駆使して東西の熾烈(しれつ)な諜報活動を浮き彫りにした。「諜報戦は1世紀を通じてほぼ間断なく継続した。背景にあったのは、ロシアの強さというより、ロシアが政治的、外交的、軍事的に劣勢に置かれた事実だった」としており、それは今日も変わらない。

本書によれば、東西の諜報戦は非対称で、当初は東側が優位に立ち、西側は劣勢だった。ソ連が原爆技術を西側から盗んだ経緯は知られるが、1938年時点で英国の原子力技術に目を付けていたという。大戦中、英情報部門に潜入した「ケンブリッジ・ファイブ」をはじめ、数百人の米国人、英国人がソ連のスパイとして働いた。これに対し、西側は戦後、偵察衛星や通信傍受といったシギントの技術で対抗した。

冷戦期の東西のスパイ勧誘合戦も本書の圧巻だ。ソビエト体制に絶望したKGBや軍情報機関GRUのスパイが自発的に西側に協力する。GRUのペンコフスキーはソ連の核戦力に関する膨大な資料をCIAやMI5に提供し、ケネディ政権はソ連の優位が幻覚であると察知し、キューバ危機を乗り切った。

GRUのポリャコフは潜伏工作員ら1500人のスパイを暴露したほか、中国担当デスク時代、70年代の米中接近につながる機密情報をCIAに提供したという。

これに対し、冷戦後期にソ連と密通した米国人エージェントは74人に上ったことも明かされる。94年に逮捕されたCIA防諜部門のエイムズは、CIAの諜報網に壊滅的打撃を与えた。

レーガン政権はソ連経済の弱体化を進める秘密工作を展開し、ソ連崩壊につながる成果を挙げた。しかし、冷戦後もKGBは不滅で、ロシア混乱の中で組織再編し、西側の弱体化を狙った秘密工作を仕掛ける。

著者はプーチン大統領について、「ロシアが抱く恨み、妄想、復讐心を象徴する」と書いている。90年代にペテルブルク総領事館で通訳を務めた米外交官によれば、プーチンは当時から米国に敵意を持ち、「アメリカだけには住みたくない」と言っていたという。

ロシアは欧米での偽情報工作やサイバー攻撃を仕掛け、西側に寝返った裏切り者のスパイを消すため刺客を送った。

著者はドイツ軍侵攻情報を無視したスターリンと同様に、プーチンも諜報に関して大失敗を犯したとし、ウクライナ軍の抵抗やNATOの結束で見通しを誤ったと指摘。「宮廷にはびこる奸臣(かんしん)たちが、批判的な検証を加えずに、プーチンの考えに沿う情報ばかりを伝えたのではないか」と推測する。

本書は終章で、「デジタル警察国家」の中国の暗躍に言及し、さらに危険な存在になると警告する。中国は最盛期のKGBを上回る80万人の要員を抱え、自国への好ましい印象を植え付けて諸国を米国から中国陣営に引き付けるために策動するとしている。

時代は変転しても、国際関係の裏舞台ではスパイ戦が絶え間なく続くことを本書は雄弁に示している。

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