ウクライナ戦争と子どもたち 映像で伝える意義
ボーン・上田記念国際記者賞受賞者講演会

最初に、過去の受賞者と比べてやや珍しいと思われる私自身の経歴を簡単に紹介してから、今回取り組んできた一連のウクライナ報道についてお話したい。

最初は制作会社のAD

私はイギリスの大学で映像制作の勉強を3年ほどした後、2010年に日本でテレビ番組の制作会社に就職し、アシスタントディレクター(AD)として社会人生活をスタートした。当初、報道志向は全く無く、13年に転職した派遣会社から日本テレビ報道局に派遣されて初めて、ニュースの現場で働くことになった。

まず夜のニュース番組「NEWS ZERO」のADとなり、その後に機会があって14年の夏から外報部(現・国際部)で記者として働き始めた。報道局には私のような、局の社員ではない「協力スタッフ」がたくさんいて、日々のオンエアを全員で支えている。今回の受賞が、こうした協力スタッフの存在に光が当てられるきっかけにもなれば、とてもうれしいことと思う。

国際部で記者を5年間やった後、19年にロイター通信の東京支局に転職し、テレビ部門のプロデューサーを2年。その後、再び縁があって21年に日本テレビに戻り、以来国際部の記者をしている。

日本テレビの国際部記者とはどんな仕事をしているのだろうか。多くは海外支局の特派員が出稿するニュースに対し、必要な映像やテロップを付けて放送するという、いわゆる「受け」と呼ばれる業務が基本で、仕事中のほとんどをテレビ局の中で過ごす。

私はこうした仕事にやりがいを感じつつも、現場に行きたいという気持ちが次第に大きくなり、海外取材の提案をするようになった。

国際部には、良い取材の提案ができれば、社員かどうかにかかわらず公平に検討し、海外出張にも送り出してくれる上司たちが常にいて、私は非常に恵まれたと思っている。そうして私がウクライナに行ったのは2回。24年2月の12日間、去年8月から9月の13日間だ。

きっかけはAP記者の映像

今回の選考対象になった報道よりも前の話になるが、私がこの戦争について伝えなければならないと強く思ったきっかけについて話したい。2022年2月24日に全面侵攻が始まった当初、ドネツク州のマリウポリが真っ先にロシア軍に攻撃された。この時、AP通信のビデオジャーナリスト、ムスティスラフ・チェルノフ記者が、同僚のスチールカメラマンと一緒にマリウポリに残り、無差別な都市部への砲撃、ロシア軍の戦車が住宅を砲撃する瞬間、そして次々と子どもを含む市民が殺されていく凄惨(せいさん)な映像を送り続けた。

当時、私はこの配信された映像を見て、「すごいな。これをニュースで使おう」と思いこそすれ、彼の置かれていた状況に本当の意味で思いを馳(は)せてはいなかったと、いま振り返ると思う。

3月の半ば、マリウポリからの映像配信が止まった。その数日後に、チェルノフ記者がマリウポリを脱出したこと、そして現地での取材時の状況を「マリウポリの20日間」というルポで公開したことを知った。

それは衝撃的な内容だった。私が遠く離れた安全な日本で彼の映像を編集しているとき、彼がいかに命懸けの状況にいたか。通信が遮断され映像を送る手段がないチェルノフ記者に、ネットがつながる場所へ危険を冒して彼を案内した地元の警察官の存在。この事実を世界に届けてほしいという、取材を受けた人たちの切実な願いがつづられていた。

私は、現場の状況に想像力が至らなかった自らを強く恥じ、絶対にこれを報じなければならないと思った。まさに突き動かされたようだった。

通信社による配信映像は国際報道では不可欠な要素だが、契約する各局が同じ素材を持っているという事情からか、その存在自体がフィーチャーされることはまれだ。そのため私が彼のルポを読んだ時、このルポと映像に焦点を当てた企画は自分がやらないと、どこもやらないかもしれないと思った。この頃、毎日新聞が彼のルポを全訳して記事にした。どのような議論、判断、経緯があったのかは存じ上げないが、私は毎日新聞にも同じ思いを持った人がいたのかもしれないと思い、勇気づけられたことを覚えている。

私はデスクに企画を提案し、「絶対やりましょう」と訴えた。AP通信の映像だけで作るということに、多少の意見が出たと聞いているが、担当デスクが背中を押してくれ、ほぼ思い描いていた通りの放送にこぎつけることができた。

制作のコアメンバーは私、担当デスク、映像編集を担当した編集マンの3人で、私は最も効果的な編集とナレーションを考えるため、目を背けたくなるような映像を延々と繰り返し見続けた。まさに精神をすり減らす日々だった。

放送の日。私はスタジオに隣接するサブと呼ばれる場所でスタンバイしていた。VTRが始まる直前、キャスターがスタジオでリード原稿を読み始めたのを耳にした瞬間、私の頭の中にすっと「自分はこれをやるため、この瞬間のために生まれてきたのかな」という思いが浮かんだ。

当時の映像をこれからご覧いただく。一部、凄惨な映像が出てくるので、心配な方は視聴をお控えください。

(当時の放送はこちら)

ハルキウの地下学校

マリウポリの映像をきっかけに、ウクライナ報道にのめり込んだ私は、現地に行きたいという思いを募らせた。

そもそも海外支局の特派員がいる中で、ウクライナに東京の記者が行くにはそれなりにハードルがあり、説得力のある取材テーマが必要だった。取材テーマを探す中で知ったのが、ハルキウの「地下の学校」の存在だった。ウクライナ東部に位置するハルキウはロシア国境から約30㌔と近く、空襲の危険から地上校舎での授業ができなくなった。空襲警報が発令されても対面授業が行えるよう、地下鉄駅の空き空間を改造して教室、つまり「地下の学校」を作ったのだった。

この地下学校については当時、運用が開始されたばかりということもあり英語メディアも含めてほとんど情報がなかったが、ここには必ず語られるべき物語があると直感し、企画案の一本として盛り込んだ。最終的に2024年2月、侵攻開始から2年というタイミングで現地取材に行けることが決まった。

前線に近く、攻撃の被害も激しかったハルキウには侵攻開始後、NNNの取材班が入った前例がない。現地入りにあたってはもろもろの安全対策をとることはもちろん、最後は現地の状況次第で撤退もあり得るという方針の下で臨んだ。この後紹介する、私たちのウクライナ取材に不可欠な存在であるコーディネーターのヴィタリーさんと出会ったのはこの時だ。この時、ウクライナにはNNNパリ支局の土井政亜カメラマン。安全管理担当の森鮎子デスクと私の3人で入った。

今回の受賞では「映像の力」を評価していただくことが多く非常にありがたいが、撮影したのは土井カメラマンであるし、当時の映像をまとめたVTRは私の取材メモをもとに東京のチームが作ってくれたものだ。映像取材はチームワークのたまもので、原稿作成や編集にも多くの人が関わっている。放送はチームの力を結集した結果であり、今回の賞は関わった全ての人の働きが評価されたものだと考えている。こちらが当時の放送だ。

(当時の放送はこちら)


「地下の学校」で過ごす子どもたち(2024年2月、ウクライナ・ハルキウ)

「地下の学校」で過ごす子どもたち(2024年2月、ウクライナ・ハルキウ)

この地下学校を直接訪れて、明るさと悲しさが共存する空間だと感じた。とにかく狭く、学校として理想的な環境でないということは容易に分かっていただけると思う。教室の後ろには子どもたちのためにおもちゃが置かれたささやかなスペースが用意されていたり、明るい色で装飾されていたりと、そこかしこにこの場所を作った大人達の心遣いが感じられるものの、地下空間の閉鎖性を完全に忘れさせることはできない。だが、ここで過ごす子どもたちは本当に楽しそうだった。ここは、彼らが本来いるべき場所ではないが、今はここしかない。子どもたちの置かれた戦時下の現実が凝縮された場所だったと思う。

取材後に感じた罪悪感

ハルキウに限らず、ウクライナの滞在中は空襲警報が何度も鳴り、取材予定にも遅れなど影響が出た。この約2週間のウクライナ取材を終えてポーランドに出国した日の夜、ホテルの電気を消してベッドに入った時に、猛烈な罪悪感に襲われたのを覚えている。今この瞬間も、ウクライナでは変わらない戦争の日常が続いている。

私は日本に帰ってもできる限りウクライナ報道をやり続けようと改めて心に誓った。それがこの次に紹介する、「心のリハビリキャンプ」につながっていく。

親を失った子どもたち

2024年夏に取材した、親を失った子どもたちの心のリハビリキャンプ。これは当時、日本テレビが行っていた子どもをテーマにした放送キャンペーン向けに企画提案をしたものだ。これは「Gen. Camp」と呼ばれる、戦争で親を失った子どもたちの心の傷を癒やすためのサマーキャンプのようなもので、21日間のプログラムに50人ほどが参加するものだった。

当初は自分が取材に行くつもりで主催団体にコンタクトをとっていたが、もろもろの事情からそれはかなわず、コーディネーターのヴィタリーさんと現地のカメラマンに取材を任せ、私が東京から取材の方針などの指示を出す形式になった。いくら丁寧な打ち合わせをしても最後は自分が直接関与できない形で取材を進めなければいけないことにもどかしさを感じたが、ヴィタリーさんはしっかりと私の意図を理解し、すばらしい仕事をしてくれた。子どもたちの心の声を引き出した功績は、実際に取材したヴィタリーさんと、現地カメラのカレンさんにある。

この時放送された特集はYouTubeでも公開されているので、興味がある方はぜひ見ていただければと思う。

(当時の放送はこちら)

未放送部分を再編集

この取材について、放送前から考えていたことがあった。放送できなかった子どもたちのインタビューがたくさんあり、それをなんとか世の中に届けたいということだった。

最初に現地から届いた未編集の映像を見た時、インタビューに応じた子どもたちの表情や質問の合間の沈黙、言葉を絞り出すための「間」が多くを物語っていると感じた。当然ウクライナ語の翻訳もない状態で見ていたのだが、自身の親の死について語っていることは明らかだった。大切な人を失った本当の悲しみは、言葉を発していないときにこそ表れ、他者に伝わるのかもしれない。


「Gen.Camp」参加者の女の子(2024年6月、ウクライナ西部)

「Gen.Camp」参加者の女の子(2024年6月、ウクライナ西部)

自らの心をすり減らし、親が亡くなった時の状況を話してくれた彼、彼女たちの気持ちを絶対に無駄にしてはいけないと思っていた。放送時間の制約上、テレビの放送では断念せざるをえなかったが、日本テレビのYouTubeチャンネル用のオリジナルコンテンツとしてならば、そうした制約なしに公開もできると考えた。

テレビ放送とは別に、個人的な動機で始めたことでもあり、当初はほぼ私一人で編集を進めていた。インタビューの書き起こしと翻訳をもとに編集、字幕付けを行い、ウクライナ語通訳者にチェックしてもらうことを繰り返した。デジタルのチームに仕上げを手伝ってもらい、最終的に27分間のインタビュー集を公開することができた。

これから見ていただくのはその一部だが、視聴者にその場の空気感を伝え、インタビューの場に同席しているかのような気持ちになってほしいという思いがあり、長い「間」をそのまま生かすことを何よりも大事にした。

(当該動画はこちら)

このようにウクライナの報道を続けていく中で、「これをやらなければいけないのではないか」と自分の中で固まってきたのが、「平和を知らない子どもたち」というテーマだった。

平和を知らない子どもたち

きっかけはヴィタリーさんと始めたウクライナの日常について伝えるウェブ連載だった。打ち合わせの際、彼の幼い息子が、「平和ってなに?」と口にしたことを聞き、戦争の世界しか知らない子どもたちが徐々に成長してきていることに気付いた。4歳、5歳、6歳と、言葉を操るようになった彼らは、どのようにこの世界を理解し、自らの言葉で表現するのだろうか。そこへの関心から、「平和を知らない子どもたち」というテーマを設定し、リサーチを始めた。

さらに、ハルキウの状況も気になっていた。現地では地下の学校が次々に造られ、通える子どもたちも順調に増えていた。ただ、全面侵攻が始まる前からコロナ禍により対面授業が出来ていなかった学校もあり、これまで一度も学校で授業を受けたことがないまま小学3年生、4年生になってしまった子も珍しくないという。現地の記事では、対人関係をどう構築するのかに課題を抱える子どもたちの存在も報じられていた。

この侵攻の開始を境に、ウクライナには戦争が当たり前すぎて、一見明るくすら見える子どもたちがいる一方で、平和な時代の記憶があるからこそ、戦争の恐怖が理解でき、死の恐怖におびえる、平和が忘れられない子どもたちもいるのではないか。彼、彼女たちの現状を取材して伝えたい、そういう思いでいたところ、ヴィタリーさんについてのドキュメンタリーを制作することになり、2度目のウクライナ取材が決定した。ヴィタリーさんのドキュメンタリー取材と並行して、現地の子どもたちをとりまく状況を取材し、去年10月に放送したのが、これからご覧いただくVTRだ。


父が戦死した4歳のユーリ君(2025年9月、ウクライナ・チェルカスイ州)

父が戦死した4歳のユーリ君(2025年9月、ウクライナ・チェルカスイ州)

「平和を知らない子どもたち」と題してはいるが、ハルキウの子どもたちを取り上げているように、世代で区切る意味は薄い。戦争状態が続く3年半(取材時)、という期間は子どもにとって長い。ウクライナ人の大人ですら、平和な時代の生活が幻のように思えると言う人もいるのだから、子どもにとっては、それが人生の記憶の全てでなかったとしても、「平和」の記憶は相当に遠くなっているのだろう。私はこのタイトルに、いまウクライナで生きる全ての子どもたちが、「平和を知らない」のではとの思いを込めた。



(当時の放送はこちら)

この放送は、当時の私が「戦争と子ども」というテーマについて、できる全てを注ぎ込む思いで制作した。「戦時下の日常」の違和感や生々しさを際立たせるために、あえてテレビ的な見やすさの作法を崩したところもある。公開・放送されたものの受け止めは基本的に視聴者に委ねられるので、どの部分がそこに該当するかは、私から具体的に説明することは控えたい。

今回の賞で選考対象となったのが、以上の2024年2月から去年10月までの一連の報道だ。

今年の放送だったため、選考の対象外となったが、先ほど述べたヴィタリーさんのドキュメンタリーについてもお話したい。

ヴィタリーの伝言

このドキュメンタリーの現地取材は前述の通り、「平和を知らない子どもたち」と並行して進めていて、「平和~」の放送後に本格的な制作がスタートした。ヴィタリーさんは2022年から現在まで、全てのNNN取材をコーディネートしてきており、彼なしには我々の取材は成立しない。一方で、家族と暮らしていた故郷が侵攻初期に戦場となり、砲撃音が響く中を命懸けで脱出して避難生活を送った経験もしている。つまり戦争の恐怖を直接知る被害者でもある。

私の取材以前にも多くのNNN取材班が彼と共にウクライナを取材してきた。歴代のNNNの取材班や、ヴィタリーさんが記録してきた映像を組み合わせ、平和な日常がある日突然奪われ、戦争が始まるとはどういうことなのか。戦争のある日常を生きるとはどういうことなのか、視聴者に疑似体験してもらえるものを目指した。本編は動画配信サイト「Hulu」で配信されているほか、短縮版がYouTubeで公開されている。

(短縮版はこちら)

映像取材の難しさと尊さ

映像報道、映像取材の難しさと尊さについて話したい。言うまでもなく、報道は「事実であること」を何よりも求められる。フィクションでない、この世界のどこかで実際に起きたことだと視聴者が信頼して見るからこそ、私たちの報道に意義が生まれ得るのだと思う。

そして、映像取材は何が撮れるかは究極的にはやってみないと分からない。これが、映像取材の難しさでもあり、尊さでもあると思う。何が撮れるか分からない、不確実な世界そのものにレンズを向けるからこそ、その瞬間にしか撮影できなかった映像に格別の価値が生まれるのではないか。

映像にしかできないことは何なのか、ずっと考えていた。今は「限定的な時間と空間の追体験」なのではと考えている。全てを見せられないからこそ「限定的」ではあるが、カメラを通して取材者がいた空間を少しでも再現する力、ほんの少しでもそこにいたのではないかということを思わせる力が映像にはある。この限定的だけれども強い力は、その場にいる人への共感力を生み、思いを馳(は)せるきっかけになり得る。

この映像の持つ力を託された報道機関に身を置く者の責任として、このことには常に自覚的でありたいと思っている。

また、これまでに何度か述べた通り、映像報道はチームワークのたまものだ。私は記者として取材テーマを設定し、調べ、現地で取材を主導し、VTRをまとめる。だが今回触れた仕事のうち、私1人で完結できたものは一つもない。撮影、編集、ナレーション、音楽、少しでもクオリティーを上げるため共に頭を悩ませてくれる上司たち、記者の仲間たち。本当に多くのプロたちの仕事に支えられて、一つ一つのVTRが放送されてきた。

本日紹介した一つ一つの映像報道が、見た人の心に忘れがたい何かを残すものとなっているとすれば、それはまず何よりも取材に応じてくれたウクライナの方々のおかげであるし、裏方として関わった多くの人々の努力の成果である。

なぜ報じるのか

最後に、個人的なことではあるが2021年に生まれた息子についてお話しする。ロシアの全面侵攻が始まった時は生後8カ月だった。

私の場合、ウクライナについて企画案を書くのは自室で、だいたい家族が寝静まった後の深夜に行う。リサーチの過程では子どもたちが犠牲になった記事や、愛する人を失った人たちの記事などを大量に目にし、映像が伴うものも少なくない。リサーチを一区切りさせて暗い寝室に入ると、息子が静かに寝息を立てている。横になり、暗闇の中でおぼろげな彼の寝顔を見詰める。ふと、先ほどの画像、映像が脳裏に浮かび上がって息が詰まる。これを何度も繰り返してきたが、この時感じた気持ち、理不尽さ、憤りこそ、私が伝えたいことの中核なのかもしれない。

私一人でできることは限られるが、それでも踏みとどまり、たくさんの人の力を借りることで、多くの人にウクライナについて伝えるきっかけを作れる「記者」という立場にある。

日本の人たちが少しでもウクライナの人たち、子どもたちへ思いを馳せるきっかけとなる報道をこれからも目指していきたいし、ウクライナでいつか再び戦争を知らない子どもたちが現れるまで、自分のできることをやっていきたいと思う。

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(会場からの書面質問と回答)

Q 映像にショッキングな部分があったが局側から簡単に許可が出たのか。

A どこまで見せるかについて、デスクとの議論は当然あった。マリウポリの企画については一部モザイクをかけたところや、画面のサイズを変えて、一部を映らないようにしたところもある。テレビの放送は公共の電波を使い、多くの人たちに一方的に送り出す。どこまで見せるかは常に議論がある。

私はそのまま見せたいという気持ちが強かったが、そのまま見せすぎると、逆にその先を見てもらえないかもしれないという意見もあった。そこはギリギリのバランスを探って判断したものだった。

Q 日本の視聴者に向けて取材を世に出す意義、「忘れない」「心を寄せる」以外に何を感じてほしいか。

A 私は記者が受け手に対して具体的に何かしてほしいなどと考えるのはおこがましいと思っている。知ってもらい、忘れないだけでもいい。今、ウクライナのニュースは領土の扱いの話題が多いが、そうしたものに触れる際に、そこに暮らす人たちへの思いや想像力を持つ、もしそのきっかけがつくれたなら、私のやった仕事が報われる気がする。そこから先は、その人それぞれで考えていただくものだと思っている。

私は、日本でメディアに対し非常に厳しい視線が注がれている状況に強い危機感をもっている。特にテレビが信頼を取り戻すためにも、真摯な姿勢で、取材者の顔が見え、透明性を持って取材し報道するということを大切にしていきたいと思っている。(本稿は3月20日に行われた講演内容を要約、一部加筆した)

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