その時、シリアで起きていたこと ボーン・上田記念国際記者賞受賞者講演会

私はアサド政権が崩壊した2024年12月に初めてシリアを取材し、政権崩壊直後の様子をつぶさに見てきた。それから約1年後の2025年11月にも再訪し、政権崩壊の内幕などを取材してきた。2度にわたるシリア取材で私が見聞きしてきたことについてお話ししたい。

中東ではおよそ10年に1度、非常に大きな出来事が起きると言われている。イラン革命以来、湾岸戦争やイラク戦争などが起き、そのたびに中東を揺るがしてきた。

2011年には中東の民主化要求運動「アラブの春」が起き、シリアでも大勢の人たちが街に繰り出し、デモを盛んに行った。だが、アサド政権は強硬にデモを弾圧したことから内戦に突入した。

それから13年間以上にわたり、熾烈(しれつ)な内戦が続いた。戦闘が長期化するにつれ、構図はどんどん複雑化していった。アサド政権を支援する形で、イランやロシアが軍事介入した一方、トルコやサウジアラビアなどの湾岸諸国は反体制派を支援した。

内戦中、反体制派はアサド政権をダマスカスに追い詰めたこともあったが、私がカイロ支局に赴任した2023年ごろは、アサド政権が軍事的な優位を確立しており、反体制派は北西部イドリブ県に押し込められていた。

シリアは面積だけで見れば、本州を少し小さくしたぐらいで、だいたい青森県から兵庫県ぐらいまでの広さだ。このうちイドリブ県は茨城県と同程度。ここに追い詰められていた反体制派が2024年11月、一斉に蜂起し、ダマスカスを目指して南下した。そして、わずか12日間で独裁政権を打ち倒し、新たな政権を発足させた。

シリアの政変は突然起きたわけではない。中東全体で大きな動きがあって、その流れの中で起きたと言える。

そもそものきっかけは、2023年10月に始まったパレスチナ自治区ガザ地区の戦闘だった。ガザのイスラム組織ハマスによる越境攻撃を受け、イスラエルはガザへ侵攻し、ハマスを徹底的に攻撃した。2024年9月には隣国レバノンにも侵攻し、今度はヒズボラという武装組織と戦った。

ヒズボラはハマスと同様、イランの支援を受けており、シリア内戦でもアサド政権を支援していた。ところがイスラエル軍との戦闘でヒズボラは弱体化した。イスラエルとヒズボラは11月27日に停戦したが、まさにこの日に、トルコの支援を受ける「ハヤト・タハリール・シャム」(HTS)が主導するシリアの反体制派が蜂起し、イドリブ県からダマスカスに向けて進軍を始めた。そして12日後の12月8日未明、アサド大統領はロシアに逃れ、政権が崩壊した。

中東ではその後も不安定な情勢が続いている。2025年6月にはイスラエルとイランの12日間戦争が起きた。10月にはガザで停戦が発効したが、わずか4カ月後の今年2月末からは米国とイスラエルが再びイランを攻撃し、今も戦闘が続いている。

イスラエルから見れば、まずイランの「手下」であるハマスとヒズボラを順番にやっつけた。その過程でイランの仲間でもあるアサド政権が勝手に倒れた。そして今、イランという本丸を攻めているという状況だ。

政権崩壊直後のシリアへ

アサド政権の崩壊のような歴史的な事案が起きると、担当地域の特派員がまず考えるのは、「どうにかして現場に行けないか」ということだ。ところが、やはりいろいろなハードルがある。

一つは安全の問題だ。シリアの場合、政権が崩壊したので治安がどうなっているか分からない。戦闘がまた再発するかもしれないし、治安機関が機能せず、無秩序な状態になっているかもしれない。ある程度安全の確保の見通しが立たないと、現地に行くという判断は難しい。

毎日新聞はダマスカスに住んでいる助手がいるので、私はまず助手に現地の状況を聞き取った。ところが、初日に連絡したときは、この助手は非常に不安がっていて、「自分も逃げ出したい。亡命したい」とまで言ってきた。

というのも、彼はイスラム教アラウィ派という少数派の信者だった。アサド大統領もアラウィ派であり、この宗派は独裁政権の支持基盤だとみなされていた。そのため、反体制派がアラウィ派を弾圧するのではないかと恐れていた。

助手がそんな状況なので、最初は「ちょっと入るのは難しいかな」と思った。ところが、翌日の12月9日にもう1回この助手に電話をすると、今度は言うことがガラリと変わり、「ダマスカスは安全だ。反体制派はとても親切だ」と言い始めた。何が起きたのか聞いてみると、反体制派の幹部との面会があり、「少数派を保護する」と約束してくれたという。信頼できる助手が「安全だ」と言い始めたので、私もこの時点で「もしかしたら現地に行っても大丈夫かもしれない」と考え始めた。

ただ、物理的に行けるかどうかは別問題だ。今回の政変の影響でシリア行きの航空便は運航を停止していた。陸路で入るには、隣国レバノンから入るルートが一般的だ。レバノンの首都ベイルートからダマスカスまでは車で2時間ちょっとしかかからない。

だが、国境が開いているのかは分からなかった。そこでレバノン側の国境管理所に取材すると、最初は「シリア人しか通していない」と言われた。だが、その後も連絡を取り続けていると、そのうち「レバノン側は日本人も通してあげる」と言い出した。もちろん、シリア側がどうなっているか分からないから「向こうで入れてくれないかもしれない」とも言われたが、おそらくシリア側は国境管理が崩壊しているだろうと踏んで、まずは行ってみることに決めた。

東京から写真部の記者も来ることになり、12月11日に2人でレバノンへ飛び、翌12日の朝、ベイルートから車でダマスカスへ向かった。

国境は非常に混雑していた。シリア側から逃れてくるアラウィ派の人たちが列をなす一方で、内戦中に難民となった人たちが一斉にシリアへ戻っていくところだった。私たちはシリアへ向かう難民に紛れ込んで、車でシリア側へ入っていった。

シリア側の国境の詰め所は破壊され、中には誰もいなかった。壁には戦闘の跡が残っており、アサド大統領の看板も壊されていた。検問所には数人の銃を提げた戦闘員が立っており、車で近づくと、車内をのぞき込んできた。「日本のジャーナリストだ」と伝えると、パスポートもろくに見ないで「ウェルカム・トゥ・シリア」と言って通してくれた。

紛争地を取材する記者というと、何となく勇ましく感じるかもしれない。だが、私はかなり臆病な性格で、この時も車の中で縮こまり、緊張で体をこわばらしていた。治安機関が崩壊したことで、暴動や強盗などの一般犯罪も起きるかもしれないし、武装勢力に拉致される可能性もある。そうした嫌なことばかり考えていた。

ところが実際にシリアに入り取材を始めてみると、だんだん不安が遠のいていった。

国境では多くの人がピースサインを掲げ、笑顔でシリアに戻っていくのを目にした。ダマスカス中心部のウマイヤド広場では、夜遅くまで多くの人が集まり、踊ったり記念撮影をしたりしていて、まるでお祭り騒ぎのような状況だった。子どもたちもたくさん来ていて、ピースサインを掲げて反体制派の戦闘員と記念写真を撮っていた。

こんな風に市民が喜んでいる姿を見ていると、だんだん不安というものが消えていった。反体制派も治安要員を各地に配置しており、治安維持に力を入れていることが伝わってきた。

アサド政権の犯罪の数々

このときの取材では、いくつも印象深い現場があった。

一つは、アサド大統領の邸宅だ。独裁政権下では近づいただけでも拘束されてしまうような場所だったが、政権崩壊直後は自由に入ることができた。

高級住宅街にあり、中にはジムやジャグジーなどもあった。すでに内部は荒らされていて、窓ガラスも粉々に壊され、家具や貴重品が略奪されていた。床にはいろいろ書類も落ちており、足の踏み場もないような状況だった。現場の荒れた状況からは、国民のアサド氏に対する深い恨みや怒りが伝わってきた。

最も印象に残ったのは地下通路だ。独裁者というのはよく自宅に脱出口を設けていることが多いと言われるが、アサド氏の自宅にも存在していた。明かりを照らしながら奥に入っていくと、100㍍以上続いていた。車が通れるほど広く頑強な作りになっており、寝室や会議室、キッチンなどの設備もあった。


内部が荒らされたアサド大統領の邸宅(2024年12月13日撮影)

内部が荒らされたアサド大統領の邸宅(2024年12月13日撮影)

内戦の傷痕も目にした。ダマスカス中心部から車で10分程度しか離れていない場所でも、数㌔四方の住宅街がすべて破壊されたまま残され、廃墟のようになっている。復興は全く行われていなかった。

アサド政権というのは、親子2代で半世紀以上にわたり独裁体制を敷き、中東屈指の監視国家を築いたと言われる。独裁政権下では、市民は政治の話を口にするのも恐れていた。それだけに、独裁政権の崩壊直後から、それまで誰も公には口にできなかったアサド政権の犯罪に関する情報が次々と寄せられるようになっていた。

中でも目立ったのが集団墓地に関する目撃情報だ。アサド政権は「政治犯」として多くの国民を拘束しており、拷問や処刑で死亡した収容者の遺体を空き地などに大量に遺棄していた。

われわれの滞在中もダマスカス郊外で集団墓地が見つかったとの情報があった。現場を訪れると、地面に埋まっていた人骨を手にしている人がいた。軍が遺体を遺棄していたのを目撃した人にも取材できた。

化学兵器が使用された現場も訪れた。アサド政権は内戦中、数百回にわたって国民に対して化学兵器を使用してきた。われわれが訪ねた現場は住宅街のど真ん中だった。アサド政権はこういうところに平気で化学兵器を落としていた。取材に応じてくれた化学兵器の被害者は、命は助かったものの、家族を失っていた。

アサド政権が運営していた麻薬工場も取材した。アサド政権は内戦中、経済制裁を受けていたため、麻薬を製造して中東各国に密輸して資金源にしていると言われていた。アサド政権はもちろん否定していたが、政権崩壊後に麻薬工場が発見されたという情報があり、われわれも取材に行った。

現場は大きな倉庫のような場所で、中に入ると足の踏み場もないほど錠剤が散らばっていた。カプタゴンという覚醒剤のような効果がある麻薬だ。この工場は軍が民間の倉庫を接収し、麻薬の製造拠点に作り替えたものだった。

反体制派が迫る中、軍は火をつけて証拠隠滅を図ったうえで逃亡したが、かなり燃え残っていた。現場にはカプタゴンを作る薬剤が入ったドラム缶や、錠剤の型なども残っていた。アサド政権が国家として密造・密輸していたことがはっきりと分かる現場だった。

アサド政権は国民を「政治犯」として拘束し、各地で拷問や処刑を行っていた。

数カ月にわたり拘束されていた男性は、とんでもない拷問の数々を証言してくれた。彼によると、3~4㍍四方のトイレのような空間に35~40人がパンツ1枚で押し込められていた。座ることができないので、みんな立ったまま眠ったという。

食事のときは隣の大部屋に移された。収容者は食事で出されたヨーグルトのふたの銀紙を丸めてペンにして、壁に多くの言葉を刻んでいた。私が取材した男性は、食事の回数をもとに日付を数えてカレンダーを書いていた。部屋の壁には収容者たちの名前や出身地なども一面に刻まれていた。収容者たちの絶望の声だった。

最初のシリア取材では、こうした現場を次々と訪ねた。その中で私が強く感じたことがある。それは、アサド政権は国民を恐怖によって支配していたのだということだ。

シリアで取材すると、たいてい家族や親しい友人が拘束されて行方不明になっていたり、内戦で犠牲になっていたりする。収容された人たちは拷問や処刑の恐怖にさいなまれ、残された人々も不満を吐露することもできなかった。独裁政権の怖さは聞いていたものの、実際に取材したことで、恐怖によって国民全体を縛っていたということがよく分かった。

だから、逆にすごく不思議なことがあった。それは、恐怖政治をしいていた強固な独裁政権がなぜわずか12日間の戦闘で倒れてしまったのか、ということだ。そんな疑問が残ったまま、最初のシリア取材を終えた。

政権崩壊の内幕

ここからは、1年後にシリアを取材した時の話をしたい。

先ほど述べたように、アサド政権は13年間も内戦を続け、国民に化学兵器まで使って権力を維持してきたにもかかわらず、たった12日間で倒れてしまった。その理由は何なのか。2度目のシリア取材では、それを解きほぐすような取材をしたいと考えていた。

反体制派による攻勢では、大きな戦闘があったのは北部アレッポや中部ハマの郊外ぐらいで、これ以降は政府軍が相次いで逃亡していた。私は当時、政府軍がダマスカスに逃げ込み、首都で徹底抗戦をするのではないかと考えていた。このため、反体制派がダマスカスに迫るにつれ、とんでもない流血の事態が起きるのではないかと危惧していた。

ところが、実際はダマスカスでも目立った戦闘はほとんど起きず、ほぼ無血開城のような形で反体制側が政権を崩壊させた。もちろん小規模な戦闘は散発的に起きたが、死傷者は非常に少なく、政権側はスムーズに反体制派に権力を委譲した。

こうした経緯があっただけに、2回目のシリア取材では、どうしても話を聞きたいと思っていた人物がいた。アサド政権で最後の首相を務めたムハンマド・ジャラリ氏だ。

彼は土木工学の専門家で、もともと大学の先生だった。2024年9月に首相に任命され、就任から約3カ月後の12月、政権が崩壊した。

ジャラリ氏は政権が崩壊した12月8日に独断でビデオ声明を出し、反体制派に「平和裏に権力を委譲する」と表明した。それを見た反体制派の指導者であるシャラア氏(現大統領)がジャラリ氏に連絡を取ったことで、翌12月9日に両氏の会談が実現し、大きな混乱もなく新政権が発足した。ジャラリ氏はいわば、権力委譲の立役者だったと言える。

いったいどのような経緯でビデオ声明を出したのか。ジャラリ氏ならば政権崩壊間際の内幕を知っているのではないかと考え、連絡先を調べてアポを入れた。

独裁政権の首相というと、どんな人を想像するだろうか。私は怖がりなので、正直、恐ろしい人なのではないかと少しビクビクしていた。取材場所に指定されたダマスカス市内のジャラリ氏の事務所を訪れ、インターフォンを押したときもかなり緊張していた。だが、ジャラリ氏は出てくるなり、にこやかに手を差し出してきてくれて、「よく来てくれた」と歓待してくれた。


取材に応じるムハンマド・ジャラリ氏(2025年11月25日撮影)

取材に応じるムハンマド・ジャラリ氏(2025年11月25日撮影)

話してみると、人柄は穏やかで人当たりも良かった。彼の母語はアラビア語だが、「英語を練習したい」ということで、英語で取材に応じてくれた。非常に教養深く、トルストイの「戦争と平和」や哲学などを引用しながら、さまざまなエピソードを筋道立てて目に浮かぶように話してくれた。なぜか「おまえは話しやすい」と気に入ってくれて、約2時間半にわたって質問に答えてくれた。

このときの話で私が最も印象に残ったのは、政権崩壊に至るまでの12日間、アサド大統領に危機感がほとんどなかったという点だった。

例えば、政権が崩壊する3日前、ジャラリ氏はアサド大統領から「協議がしたい」という申し入れを受け、大統領府から首相府に担当の役人が送られてきた。何の話かと思っていたら、省庁の統廃合などの行政改革の話だったという。このとき、反体制派はすでにダマスカスに近いところまで迫っていた。ところが、そんな話は一切出なかったので驚いたそうだ。

反体制派がダマスカスの目前に迫った12月7日の夜、ジャラリ氏はアサド大統領の指示を仰ぐため、大統領府に電話した。ところが、アサド氏に状況を説明しても、逆に「われわれはどうしたらいいか」と質問されて衝撃を受けた。結局、この電話では何の指示も出されず、「とにかく明日会って話をしよう」と言われて電話が切れた。

そうこうしている間に、反体制派がダマスカスに攻め入ってきて、状況が悪化していった。ジャラリ氏は夜中、内務大臣がテレビで「ダマスカスは強固な防衛線を敷いているので安全だ」と表明するのを見た。すぐに内務大臣に直接電話して確認すると、内務大臣は「実際は、状況は非常に悪い。ただテレビでそんなこと言えないだろう」と語った。アサド政権は状況を分かっていながら国民に嘘をついていたわけだ。

これを受け、ジャラリ氏はもう1回大統領府に電話をかけた。アサド氏から指示を仰ごうと思ったためだ。ところが大統領府は誰も電話に出なかった。

驚くことに、ジャラリ氏は首相であるにも関わらず、アサド氏の携帯電話の番号を知らされていなかった。アサド政権というのは、アサド大統領を中心にほぼ身内や治安機関のトップで固めたインナーサークルですべてを牛耳っていたという。ジャラリ氏は蚊帳の外だったため、危機にあってもアサド氏の携帯電話に電話をかけることもできなかった。

ジャラリ氏がビデオ声明を出すことを決めたのはこのときだ。「平和裏に権力を委譲する」と語る様子を自分の娘にスマホで撮影してもらい、自身のフェイスブックに上げた。結果的にこの声明がきっかけで反体制派を率いるシャラア氏との会談が成立し、平和的な権力移行が行われた。

ジャラリ氏に「なぜ独断でビデオ声明を出すことを決めたのか」と尋ねると、彼は「正直に言って、自分と家族を守りたかった」と理由を打ち明けた。反体制派が来た時に、協力姿勢を示していなかったら何をされるか分からないから、自分から権力委譲を申し出たのだという。そんな心中まで率直に語ってくれたので、「この人は本当に心底思ったことを語ってくれているんだな」と感じた。

このときの取材でもう一つ印象に残ったのは、アサド政権は政権内部まで恐怖で支配していたのだということだ。

ジャラリ氏によると、彼を含めた閣僚はみんなアサド氏を恐れていた。いつも「失敗すれば殺されるかもしれない」と恐怖を感じていたという。アサド政権は例えば軍の内部でも、上官が日常的に兵士を拷問していた。一般市民だけでなく、軍や閣僚など政権の内部に至るまで、同じように恐怖で支配し、強烈な独裁を維持してきた。私はこうした内情を聞き、政権があっさりと崩壊した理由もまさにそこにあったのでないかと感じた。

アサド氏は政権の内側も恐怖で縛っていたため、おそらく末端の兵士には忠誠心などもなかったのだろう。ただ怖いから従っていただけの人たちだ。そのため、ひとたびそこにほころびが生じたらすぐに逃げてしまった。独裁政権の恐怖による支配は、強固な体制を支えた強さだったが、それがまさに政権の弱さにもなったのではないか─。ジャラリ氏のインタビューは、そんなことを強く感じた取材になった。

なぜ紛争地を取材するのか

最後に一言だけ、ジャーナリズムについて話したい。

私は中東に3年間駐在し、紛争地の取材を何度か経験した。シリアに関しても、結果的に危険な目には遭わなかったが、当時は日本の外務省が退避勧告を出していた。

こういう場所で取材をしていると、よく日本で目にする批判がある。「わざわざそんな危険なところに記者が行って迷惑をかけるな」「地元住民のSNSの発信や海外メディアの報道もあるので、あえて日本の記者が行く必要はない」といった批判だ。

私はこうした批判はちょっと違うのではないかと思っている。理由は三つほどある。

一つは、紛争に直接的な利害関係を持たない日本のメディアが行くことに意義があると考えているためだ。例えばガザの戦闘では、パレスチナやアラブ諸国、イスラエル、欧米諸国は紛争そのものに深く関わっている。こうした国に比べ、日本は直接的な関わりが薄い。そのため、これらの国々のメディアに比べ、一歩引いたところから報道がしやすい。取材相手も日本のメディアに対しては割と率直に話してくれるケースが多いと思う。いわば第三者的な目で報じることができるのが、日本のメディアの強みなのではないか。

二つ目の理由は、日本の価値観を通じて紛争地などの現場を取材することが大切だと感じているためだ。

一番分かりやすいのは、地震の被災地の取材だ。例えば途上国の被災地に行くと、大地震の取材経験を持つ日本の記者が見ると、耐震性や避難所の運営など「おかしいな」と思うことがたくさんあり、問題点を指摘できる。こうした報道は日本の価値観がないとできないだろう。シリアでも内戦からの復興はまだまだこれからだ。日本も復興については大きな経験があり、日本独自の価値観で取材していく価値があると考えている。

三つ目の理由は、日本のメディアも多様な報道に貢献していく責務があると感じているためだ。


内戦で破壊された住宅街(2024年12月14日撮影)

内戦で破壊された住宅街(2024年12月14日撮影)

専制国家が多い中東にいると特に強く感じるのが、横並びで画一的な報道の怖さだ。私は、自由で民主的な社会には、多様な報道が欠かせないと思っている。日本や欧米などできるだけ多くの海外メディアがさまざまな現場に入って、多様な価値観から報道していくことが、その国や社会を良くしていくことにつながっていくはずだ。

世界的に見ると、海外に特派員を置いておけるメディアというのは、実はそれほど多くはない。日本のメディアは財政的にも厳しい状況ではあるものの、まだ海外支局を維持しているところが多い。だからこそ、メディアの責任として、他の大手の海外メディアとともに、紛争地を含めさまざまな現場を取材し、多様な報道に貢献していくべきではないか、というのが私の考えだ。

シリアは、せっかく国民が半世紀以上にわたる独裁を終わらせ、自由で民主的な国に向けて立ち上がった国だ。もちろん、宗派対立や復興、難民帰還など多くの課題があり、前途は多難だ。それでも、紛争が続く中東地域で独裁政権崩壊のニュースは大きな希望をもたらした。

だからこそ、私も報道機関の一員として、今後もシリアに関する多様な報道に貢献していきたい。日本の皆さんにもぜひ引き続きシリアへの関心を持っていただければと思う。(本稿は3月20日に行われた講演内容を要約、一部加筆した)

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