苛烈さを増すメディア監視 特派員リレー報告(173)
180カ国・地域中178位。国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングにおける中国の順位だ。2025年時点で中国より下位は北朝鮮とエリトリアのみ。拘束されている報道関係者は100人超で世界最多だ。
中国のメディアは「共産党の喉と舌」と呼ばれる。その役割は党の主張を内外に浸透させる宣伝工作で、西側諸国とは報道機関のありようがまるで異なる。
そんな国で「不都合な真実」を報じかねない外国人記者は、徹底的な監視対象だ。中国で当局の「目」を感じたことのないジャーナリストはいないだろう。
規制は新型コロナウイルス禍を経て苛烈さを増した。ハイテク技術やネット決済の普及で「監視しやすい」環境が整ったという事情に加え、コロナ禍で確立した、防疫を名目とした取材空間の圧縮がそのまま続いている印象だ。
トイレ前で「出待ち」
ショッピングモールのトイレから外に出ると、全身黒ずくめの男が待っていた。視線が合うと体ごと横を向いたが、こちらが歩き始めると数十㍍の間隔を空けてついてくる。
2024年2月、安徽省合肥を訪れた時のことだ。出張先の地方都市で当局者に尾行されるのは珍しくないが、私的な旅行では初めてだった。
尾行に気付いたのは数時間前。男はほぼ黒一色の服装だが、シャツの前に一本白い線が入っていて、人混みでも見分けがつく。記者の行動監視に加え、萎縮効果を狙った「見せる警備」といったところか。
25年、青海省西寧と寧夏回族自治区銀川でも同じような目に遭った。どちらも純粋に観光目的だったが、銀川では初日に空港のターミナルを出た瞬間から地元ナンバーの車に後をつけられた。
ホテルでは終日、当局者と思しき私服の男2人がロビーで待機し、私が建物の外に出るとスマホで誰かと連絡を取る。こちらが徒歩なら先方も徒歩で、タクシーに乗ると車で追いかけてくる。
飲食店、寺院、博物館─。どこに行っても出口で待ち受けられ、こうした状態は滞在最終日、空港に入るまで続いた。銀川では尾行に加え、ホテルの部屋に所在確認とみられる「間違い電話」まであった。
こうした経験は外国人記者にとって日常茶飯事で、現地では大した話題にならない。はるかに理不尽な扱いをされる例も多いので、感覚が一種まひしてしまう。
中国で出張や旅行の手配を、ネットを介さず行うことはほぼ不可能だ。仮に現金で押し通したとしても、駅やホテル、観光地で執拗(しつよう)にパスポートの提示を求められるため、こちらの行動はリアルタイムで当局に伝わる。
ただ、尾行は常につくわけではなく、プライベートでは努めて背後を見ないようにする癖がついた。気付きさえしなければ、不快な思いをせずに済む。幽霊のようなものだ。
「1時間で退去を」
私生活ですらこうした状況なので、本職の取材活動はなおさらだ。普段から厳しい当局の報道統制がマックスに強まったのが25年9月3日、北京で開催された「抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利80周年」記念日の軍事パレードだった。
習近平政権は同年、抗日戦勝記念を祝うキャンペーンを官民挙げて大々的に展開。その集大成が、ロシアのプーチン大統領や北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記ら友好国首脳が一堂に会する天安門前での軍事パレードだった。
天安門から1㌔ほどのわが家はこの間、実質的に出入り禁止となり、ホテル住まいを余儀なくされた。数週間前から毎週末に繰り返された予行演習時にも一帯がほぼ封鎖されたため、土日になると市内のホテルに居を移す日々が続いた。
時事通信中国総局を含む外国メディアが多く入居する地域は、本番の何日も前から公安の要警戒対象となり、ベランダへの出入りや窓の開閉、撮影を禁じられた。ちなみに総局は天安門から約3㌔離れており、ドローンでも使わない限り窓からパレードを見ることなどできない。
前日には総局のある建物自体が立ち入り禁止となり、記者は自宅やホテルに分散して仕事を続けた。ところが、ここにも当局者が個別に訪れた。
私の部屋にはホテルの従業員が来て「1時間以内に退去してほしい。当局の決定だ」と申し訳なさそうに告げた。抗議しても仕方がないので、荷物をまとめて1階に下りると、他にも追い出された日本メディアの記者がいた。
ロビーでは待ち構えていた北京市公安局の男女2人組が、移動先や取材予定を問い詰めてきた。急きょ予約した新たな宿泊先を伝えると、黒塗りの当局車を示し「送る」と言う。「拘束」の2文字が頭をよぎったが、腹をくくって乗った。後部座席でパソコンを開き、一連の出来事を記事化した。怒りで筆が進んだ。
拘束はされなかったが、公安局員はその後も徹夜でホテルに張り込んだ。同じホテルに泊まった同僚は、夕食のため一時帰宅したところ、局員が玄関までついてきたという。
10年前にも戦勝記念日のパレードはあったが、当時を知る記者は「これほど厳しい環境ではなかった」と話す。国家安全を第一とする習政権下で、記者の活動範囲は年々狭まっている。次回のパレードは中国軍創設100周年の27年か、建国80周年の29年か。その時、この国は記者をどう扱うのだろう。
3列の「後退」
中国で年1回、外国メディアにも開放されるイベントが3月の全人代(全国人民代表大会、国会に相当)だ。しかしここでも、現状変更を徐々に進める「サラミ戦術」と言うべき変化が見られる。
1993年に定例化した全人代期間中の首相による記者会見は、2024年に唐突に中止された。過去には会見で未公表のデータが明らかにされたこともあり、「中国の透明性」(全人代公式SNS)を確認できる数少ない機会だった。会見の廃止は「習一強」と化した政権の閉鎖性を示すものとして象徴的に映った。
全人代初日に首相が読み上げる政府活動報告は、以前は開幕前に紙の冊子で記者に配られ、経済成長目標など重要な内容を把握できるようになっていた。夕刊の締め切りがある新聞・通信社にはありがたい措置だ。私が初めて全人代を取材した19年には、人民大会堂に集まった各国の記者が冊子を片手に慌ただしく速報を吹き込む姿が見られた。

人民大会堂3階記者席から見た全人代開幕式(北京、3月5日、筆者撮影)
近年、外国人への冊子配布は大使館関係者らに限られるようになった。理由は不明だが、活動報告は首相の読み上げと、それに伴うサイトでの発表まで確認できないようになった。
ペン記者は人民大会堂の大ホール3階席から開幕式を取材する。19年には3階の3列目まで近寄ることができた。26年現在、記者席は通路を挟んだ6列目から後方だ。前5列は全て警護のために空けられている。もともと習国家主席らが並ぶ正面のひな壇は相当離れていたが、撮影を考慮すると、この3列の「後退」は痛い。
世論誘導に苦慮?
北京に駐在する前、18~22年に香港特派員を務めた。19年、香港では「逃亡犯条例」改正案をきっかけとした反政府デモが連日発生し、習政権は徹底的な弾圧を加えた。20年6月には、中国政府主導で香港国家安全維持法(国安法)が施行。多くの香港市民が支持していた民主派は瞬く間に社会の表舞台から姿を消した。
中国批判の論調で知られた香港紙・蘋果日報(リンゴ日報)は21年に廃刊。高等法院(高裁)は今年2月、創業者である黎智英氏に対し、国安法違反などの罪で禁錮20年を言い渡した。西側式の教育を受けた香港市民があれほど恐れた「報道の自由なき世界」こそ今の中国であり、変わってしまった香港なのだろう。
一方で、絶大な発信力を有しているかに見える体制側のメディアもまた、SNS時代特有の悩みを抱えている。3月10日、全国政治協商会議(政協)に合わせて北京で開催された新聞・出版業界会議では、主要メディアの「世論誘導」能力が低下していることへの危機感が示された。
北京市共産党委員会の機関紙・北京日報の李学梅・副総編集は、ネット情報の氾濫により世論の分化が進み、一元的な価値観を浸透させることが困難になっていると指摘。その上で、「主流メディアによる権威ある情報」が優先表示されるようアルゴリズムを調整することや、官製報道に対する中傷の排除、厳罰化を提起した。
中国ではフェイスブックやX(旧ツイッター)、西側のニュースサイトは、仮想プライベートネットワーク(VPN)を通じてしか閲覧できない。「微博(ウェイボー)」をはじめとする国内SNSは当局の監視下にあり、党や政府方針に反する投稿をすれば、削除されたりアカウントを凍結されたりする。
ここまで徹底した対策をしても、完璧な情報統制は難しいということだろう。ネットの台頭による「オールドメディア」の衰退は世界共通の現象だが、中国の場合、それは企業の経営問題ではなく、体制の維持・管理能力にかかわる重要課題となっている。