核の時代の教訓 忘れられた「恐怖」
核兵器の保有国が保有していない国に「持つな」と要求する。あるいは核の脅威を振りかざす。こうした構図に、筆者は長く違和感を抱いてきた。例えばイランの核開発問題である。2月末、米国とイスラエルがイランへの攻撃を開始した。攻撃直前まで米・イラン間の核交渉が続き、米側の「イランによるウラン濃縮活動の全面停止」要求と、イラン側の「核兵器不拡散条約(NPT)が認める平和的濃縮の権利」との溝は埋まらなかった。
欧州ではロシアによるウクライナ侵攻が長期化する中、ロシアのプーチン大統領は核兵器の使用を示唆する発言を繰り返している。ウクライナはソ連崩壊後に核兵器を手放した国である。核による威嚇が現実の外交手段として語られる光景は、冷戦終結後の欧州では遠い過去のものとなったかに見えたが、今、世界は再び核の影に覆われている。この機に、ハーバード大学教授セルヒー・プロヒーの最新作『核の時代(The Nuclear Age)』(未訳)を基に、核を巡る歴史を振り返ってみたい。プロヒーはロシア生まれで、ウクライナ育ちの歴史家で、チェルノブイリ原発やソ連崩壊に関する著作でも知られる。
核の恐怖
本書を貫く一本の糸は、「恐怖」である。各国が核を持とうとしたのも、核を手放したのも、すべて恐怖が動機だった。
1939年夏、ナチスを逃れた亡命科学者レオ・シラードらがアインシュタインのもとを訪れた。ベルリンで核分裂が発見され、ナチス・ドイツが原爆開発に乗り出すかもしれない。その恐怖から、アインシュタインはルーズベルト米大統領に書簡を送った。「これまで想像もされなかった威力の爆弾」の可能性を伝えるこの書簡を読んだ大統領は直ちに行動を命じた。これが後のマンハッタン計画、そして広島・長崎への原爆投下へとつながる米国の核開発の始まりとなる。
以後、各国が「それぞれの事情」で核開発に向かう。ソ連はアメリカへの恐怖から、英国はソ連への恐怖から、フランスは「核保有こそが大国としての独立と地位を保証する」という論理から核実験を実施していく。中国は「核保有国の独占を打ち破り、核廃絶のために核を開発する」と宣言した。インドとパキスタンは互いへの恐怖から1998年に核実験を強行した。どの国も「自国の安全のため」の開発だった。
1954年3月1日、日本人にとって忘れられない事件が起きた。マグロ漁船第五福竜丸の乗組員23名が、ビキニ環礁の公海上で「西から昇る太陽」を目撃した。広島・長崎の1000倍の破壊力を持つ米国の水爆実験「キャッスル・ブラボー」の「死の灰」が降り積もり、無線長は同年9月に死亡した。856隻の日本漁船が汚染マグロを水揚げし、映画「ゴジラ」は、この核の恐怖が生んだ文化的産物でもある。
プロヒーは、この事件を核の恐怖が初めて国際世論を動かした転換点として描く。核は遠い戦場の兵器ではなく、放射性降下物として数百㌔外の一般市民を死に至らしめる存在だった。
持つ国と持たざる国
「キャッスル・ブラボー」実験の衝撃を契機に、非核保有国が主導する形でNPT(1968年発効)への道が開かれた。しかし、NPTには根本的な不条理が内包されている。その象徴がアメリカとイランの関係だ。アメリカは1957年の「平和のための原子力」政策の下、多くの国に核技術を輸出した。イランの核計画も米国製原子炉から始まり、親米派の国王(シャー)政権時代に80%まで完成していたブシェール原発が、イスラム革命と対イラン制裁を経て2011年にようやく送電網に接続された─「原子力発電史上、最長の建設プロジェクト」である。
「平和のための原子力」政策は核技術の平和利用を広めることで国際的影響力を維持しようとする外交戦略だったが、その技術を提供した当のアメリカが、やがて非核保有国に「核を持ってはならない」と求める立場を取るようになる。
NPTはそもそも「核を持たない代わりに、核保有国が軍縮に努力する」という双務的な約束のはずだった。しかし、核保有国は軍縮どころか、今日に至るまで核の「近代化」(実質は核再軍備)を競い合っている。「持てる国」が「持てない国」に禁止を押し付けるこの非対称な構造を、プロヒーは本書の核心的な問題として描く。
軍縮を可能にしたのは「恐怖」
同書が最も力強く描くのは、「恐怖」が軍縮を可能にした歴史でもある。1962年10月、キューバ危機で米ソが核戦争の瀬戸際まで追い詰められた当日、フルシチョフはケネディに書き送った。「人々が極度の不安の中を生き抜いたこの緊張の後に合意することは、大きな報いとなる」。翌63年、部分的核実験禁止条約(PTBT)が調印された。恐怖の共有が、軍縮への扉を開いた。
1980年代のレーガンとゴルバチョフにも同じことが言える。レーガンは83年に核戦争後の世界を描いた映画を観て日記に深い落胆を書き記した。ゴルバチョフはチェルノブイリ事故(86年4月)から約2週間後、こう語った。「ほんのひと吹きで、私たちは核戦争が実際にどのようなものかを思い知らされた」。そして87年12月、中距離核戦力(INF)条約が署名され、米ソ合わせて2692基のミサイルが廃棄された。
翻って今日はどうか。プーチン大統領はウクライナへの全面侵攻当初から核使用をちらつかせてきた。核の脅しが西側のウクライナ支援を躊躇(ちゅうちょ)させてきたことは否定し難い。ウクライナは1994年のブダペスト覚書で、米・ロ・英による安全保障の保証と引き換えに核を手放した。しかしおよそ30年後、保証国の一つであるロシアが侵攻した。核を手放した国への保証がいかに脆弱(ぜいじゃく)かを示す、残酷な歴史の一面だ。
核の恐怖は、使い方次第で軍縮の力にもなり得る。キューバ危機のケネディとフルシチョフ、チェルノブイリを経験したゴルバチョフとレーガン。彼らは核戦争の恐怖を直視したからこそ、軍縮へと踏み出せた。4月末からニューヨークで開かれるNPT再検討会議は、その教訓を問い直す場の一つになるだろう。中東で再び戦争が広がる今こそ、指導者も市民も、第五福竜丸の死の灰、キューバ危機の14日間、チェルノブイリの夜をもう一度思い出すべきではないだろうか。