2月末の米国、イスラエルによるイランへの空爆をきっかけに中東、とりわけペルシャ湾の情勢が一気に緊迫化した。エネルギー危機の衝撃とともに、ホルムズ海峡への自衛隊派遣の是非もメディアで報じられ始めた。3月中旬の現在、各新聞社とも法的なハードルが高いとして否定的な論調だ。日米首脳会談で高市首相はトランプ米大統領に、現状での艦船派遣は法律の制約があると理解を求めて受け入れられたが、海峡の安全確保について貢献は求められた。かつて日本はアラビア海やイラク、クウェートなど湾岸諸国に特別措置法を駆使して自衛隊を派遣してきた。小泉純一郎内閣の時代、2001年9月の米中枢同時テロを経て、アフガニスタン、イラク戦争に突き進む米軍と歩調を合わせるように部隊を送っている。当時4年間、防衛担当の社会部記者として取材に関わった筆者が当時の自衛隊派遣の経緯を振り返りたいと思う。

四半世紀前の「非戦闘地域」派遣

「安全保障関連法に基づく『存立危機事態』に認定すれば、集団的自衛権の行使として自衛隊による民間船舶の護衛や機雷掃海が可能になる。政府は国会答弁で国際法上違法な武力行使を行った国を集団的自衛権で支援することはないと明言してきた。今回の米国の軍事作戦は国際法上の評価が分かれ、安保関連法適用のハードルは高い」(3月12日付読売)、「自衛隊法に基づき海上警備行動を発令し、ペルシャ湾に残された日本関係船舶の護衛のため、海自の護衛艦を派遣することも可能だ。ただ、海警行動は治安維持が目的で、紛争地域での活動は法解釈上の問題がある」(3月13日付産経)。これら最近の記事は新たな自衛隊派遣に踏み切れば、法的に大きな問題が生じるリスクがあると明確に伝えている。

四半世紀前の2001年に米中枢同時テロが起きた当時の空気は全く違っていた。程なく横須賀から出航した米空母打撃群を守るように海自艦艇がエスコートした。この海自の護衛行動についての法的根拠は当時の防衛庁設置法の調査・研究目的とされ、政府は苦しい言い訳を続けたが、対米支援のための特措法案を急ピッチで仕上げた。テロに怒った米国民の圧倒的支持を得たブッシュ政権は10月に入り、タリバン政権下のアフガニスタンに空爆を始めた。小泉政権はこれに合わせるように「テロ対策特別措置法」を成立させて、11月に海自艦艇を次々と出航させた。アラビア海に展開する米艦に洋上給油することが主な任務だったが、活動範囲を敢えて「インド洋」という広大な海域にして「非戦闘地域」という概念をつくって自衛隊は直接戦争に関わっていないかのような体裁を取った。

実際のところ日本は米軍の兵站(へいたん)部門の一端を担い、しかも無償で大量の燃料を気前よく渡した。武力行使ではなくても、戦時中の後方支援活動に日本人の税金が投じられた。この手法は今回の米国とイランとの戦争が収束しない限り、適用できないだろう。何よりも米艦に給油すること自体がイランから見れば敵対行為と見なされるに違いない。

報じられなかった活動拠点

海上自衛隊が当時、中東での拠点にしたのはアラビア海に面したアラブ首長国連邦(UAE)のフジャイラだった。燃料の積み出し港で、現在はイランから飛来するとみられるドローン(無人機)攻撃にさらされ炎上する様子がニュース映像として報じられている。

2001年当時、海自は共同通信を含む日本のメディアに現地での護衛艦など乗艦取材を認める代わりに、このフジャイラという地名をニュースで伏せることを要望した。自衛隊としては日本の艦艇の寄港地を広く知られ、テロの標的になりたくなかったのだろう。戦争を遂行する米軍のため洋上の「移動ガソリンスタンド」を担う自衛隊の活動を直接取材したいために各社はやむなくその条件をのんだ。

その後、海自イージス艦の現地派遣の際も、その約束ごとは守られた。その代償としてこの地名は歴史に刻まれなかった。今、空襲で炎上するフジャイラの港湾にかつて海上自衛隊が拠点を置いたという説明を新聞やテレビの報道で私は見たことがない。

戦争の歯車は一度、回り始めるとすぐには止まらない。アフガン開戦からわずか1年5カ月後の03年3月、米国はイラクが大量破壊兵器を保有しているという理由で新たな戦争に踏み切り、短期間でイラク全土を制圧した。しかし、イラク側の武装勢力の自爆攻撃による抗戦は激しさを増して米兵の死傷者は増えた。日本は当初イラクへの陸自派遣はためらったが、米国の圧力に押し切られた。日米外交の道具のように扱われ、候補地も二転三転して、制服組幹部が怒り心頭だったのを覚えている。

イラク派遣の実態

2003年7月に成立した「イラク復興支援特別措置法」で自衛隊派遣は改めて「非戦闘地域」に限定されたが、実態はそうではなかった。イラク南部サマワを拠点にした陸上自衛隊の宿営地に向けて武装勢力による砲撃が何度もあった。取材記者として当時の記憶はまだ生々しいものがある。また「イラク日報問題」では、明らかになった隊員たちの資料には現地情勢は安定していなかったとはっきり記載されていた。問題なのは、つじつまを合わせるため、そうした公文書が後の時代に隠蔽(いんぺい)されたことだ。

イラク特措法は延長され続け、06年に陸自は宿営地を撤収した。それまでに、外部から容易に近付けないように1㌔四方の砦のような宿営地を築いた。河川の水を浄化した給水活動、地域住民への医療活動も地元業者やイラク人医師を介しての支援だった。隊員への危害リスクを避けるための制服組の苦肉の策だったように思える。

そもそもイラク戦争では南部サマワ地域は米海兵隊が通り過ぎて行ったので、戦災がれきのような場所は現地取材を通じても私は発見することができなかった。「復興支援」という題目だけ国民に示され、対米外交のために日本の存在感を示すだけのお付き合いだった。25年前に撃退したはずのアフガニスタンのタリバンは米軍の撤収とともに政権に復帰している。イラクにあるとされた大量破壊兵器はどんなに捜索しても見つからなかった。米国はイラク戦争に大義がなかったことも認めている。それを考えれば、新たな自衛隊派遣はどれだけ危険に満ちているか、やがて分かることになるだろう。

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