記者は天国に行けるか ~私のジャーナリズム論~ 4月特別講演会

これだけの記者やOBの方を前にするのは、15年前に渡辺恒雄読売新聞主筆を告発した記者会見以来だ。私の言いたいことは二つだけ。一つは、文章を書き残しましょうということ。生涯かけて記者であって下さい。目撃した権力者や権力組織の秘密は彼らに墓場に持っていかせないようにと願っている。それが天国へと導く細い道かもしれない。二つ目は、自分自身の死亡記事、私は希望記事と言っているが、それを自分自身で書いてみたらいかがだろうか。この世に爪痕を残すきっかけとしても、ぜひ私の提言をお聞きいただければと思う。

私は75歳。1975年に読売新聞社に入り、巨人軍の代表を務め、2011年に渡辺氏の独裁の非を告発して、独立した。今、ノンフィクション作家として、「後列の人」という表現を使っているが、秘かに組織や仲間を支える無名人を実名で書いている。清廉一途な後列の人を探しては、その人生を書き残すことを自分のなりわいにしている。最近は匿名社会なので、実名はそれに抵抗する意味もある。

会話の復元にも努めている。会話を使ってノンフィクションを書く。従来のノンフィクションは会話が少ないので若者には硬質な印象を与える。独自のノンフィクションを打ち立てたい気持ちもある。

もう一つの私の方針は、直球を投げる。ずるく稼がない。目下、週刊ポストで「もつれ雲」という小説を連載している。何でもチャレンジすること、ノンフィクションとフィクションの間を何とかして探りたいからだ。これは糸川英夫氏という日本のロケット博士を支えたロケットボーイズ、若い人々の青春物語を描いている。すでに50回近い。

毎週孤独な作業だが、書き始めるときっとできると思うようにしている。私にはノンフィクション作家になるとか、小説を書くという気持ちは全くなかったが、よく考えてみたら、こういう道しかなかったと時々感じる。

三つの人生の転機

私には人生の転機が三つある。駆け出しは地方記者。青森支局に赴任し、その後東京に戻り、主に警視庁や国税庁を担当した。証券会社の損失補填をスクープし、不良債権の飛ばし問題を追及したことが山一証券の志操高く生きる人々を描いた『しんがり』につながった。その後に読売中部本社の社会部長、本社編集委員、運動部長を務めた。運動部長は2カ月半足らずだが、アテネ五輪で良い読み物を出したいので付き合ってくれと言われたのだ。

新聞記者は「喜怒哀楽」の4文字のうち2文字しか経験しない人が多いのではないか。私もそうだった。証券会社の損失補填キャンペーンをやった時のことだ。証券会社が大口顧客だけを優遇し、利益保証をして、損失補填をすることが当たり前のように行われていた。国税庁の人々の中に、私と同様に「それはおかしい」という人がいた。一方で経済部の記者たちは、大口優遇は当たり前ではないかと言う。

そうだろうか。その常識こそがおかしくないか。だから国税庁の証券界に対する税務調査を一年以上もじっと見つめて、四大証券の損失補填を課税問題にしたことを捉えて1991年にキャンペーンを始めた。間違ったらクビだな、と思っていた。野村証券から日興、大和、山一、中小の会社などの腐敗を次々と書き、野村、日興証券の社長が辞任に追い込まれた。長い単独取材が報われて晴れがましい気持ちだった。会社の中を肩で風切って歩く。先輩が通った道だった。

幸せの新聞

ところが、大学の講演会で女子大生から「新聞が面白くない」「新聞を見ても苦しいこと、嫌なことしか書いてない。なぜでしょうか」と言われた。なるほど、喜怒哀楽の四文字があるのにそれはおかしいな。知らず知らずに怒りと哀しみだけを取り上げる新聞を作っている、と思った。それなら残る「喜び」と「楽しさ」の二文字で1㌻埋める「幸せの新聞」も作りたいと思った。それがその人に対する答えだ。

新聞記者として、やはり悲しいニュースを優先して書いてきたからだ。大変な悲劇や、おかしな、不自然なことばかりを書いてきた自分にはっきりと気付いた。中部本社の社会部長に50歳で行った時に、皆の前で、特ダネを獲り、本を書こう。そしてぜひ「幸せの新聞」を作りたいと話した。喜怒哀楽のうち「喜」と「楽」の2文字で新聞を作ろうじゃないかと話したが、なかなか分かってもらえなかった。

人間が倒れたら不幸だが、人は倒れたら起き上がるしかない。私は長い間、起き上がる幸せについては、あまり考えずにきた。それで、人が起き上がること、再起の意志を前向きに捉えて、毎週土曜日に1㌻全段の新聞を作ってみよう言った。題字を「幸せの新聞」にして、その横に、「このページには悲しいニュースは1行もありません」と謳(うた)った。悲しい出来事もその人が再起する瞬間を捉えると、幸せなニュースになるかもしれない。涙と笑顔は裏表だ。そう考えて、新聞を作ってみた。反響がものすごくあった。2年近く中部本社にいたが、僕がいなくなった後も、いわゆる「乱」を起こすまで、その新聞は続いた。必要とされているのだなと思った。

人間にも会社にも再起物語はあった。心臓病で生まれた娘のために人工心臓を何とかして作ろうと一生を捧げ、カテーテルの開発につなげた両親。無煙の焼肉機を作ったが、火事を起こし、改良に次ぐ改良、倒産の危機を経て新しい無煙ロースターを製造した経営者。みんなでこんな人をコツコツ集め1人1本ずつ書けば、ずっと続くと話した。

再起物語だけでなく、「あなたの転機につながった手紙や言葉を紹介してください」と、「心に届いた手紙」というタイトルで物語を拾い集めた。一定の部員がいたら必ずできる。せめて週1回、真人間になって、幸せの新聞を作ってみようと言って1㌻増やした。

これは労働強化だが、記者のやる気に賭ける、そういう気持ちで、メインの連載は私がやった。自分で書かないと誰もついて来ないので、メインは自分で書くのだ。僕は社会部長であると同時に、幸せの新聞の編集長でもあった。中部本社(現・中部支社)では愛知、岐阜、三重の3県を統括するが、僕の一番の問題はあまり外を出歩けなかったことだ。でも、必死になって、そこで生まれてくるものがあった。

記者にやってもらいたいことがもう二つあった。中部管内にはJR東海とトヨタ自動車があった。私は新幹線の物語とトヨタの物語、それと幸せの新聞の三つはやり遂げると決心して現地に乗り込んだ。それぞれを本にしたいと思っていた。

忙しいのに本なんかできるかと思う人もいる。でも、簡単ではないが、粘り強く生きれば本は書ける。記事を書いて、連載し、それを徹底的に叩(たた)き直して本にまとめる。一連の工程を一生懸命にやり、それが読まれるものになったとき本が生まれる。

『トヨタ伝』や、新幹線の輸出物語『海を渡る新幹線』を作った。さらに「幸せの新聞」に掲載した記事も追跡取材をして本にまとめた。皆と話しながらアイデアを練り、自分も取材者となって書いていく。

苦しく楽しかった。後付けになるが、切った張ったの事件記者でありたくないという気持ちが、今の職業につながっていると思っている。

「ナベツネ」氏との決別

2004年にスカウトの裏金問題が発覚し、組織立て直しのために巨人軍の球団代表に就けと告げられた。育成選手制度と育成中心のスカウト組織を作ったことが私の自慢だ。今では育成選手制度は当たり前になった。最初の2、3年はどん底だったが、開き直って辞表を書き、プロがやって駄目なら私がやってもいいはずだと思った。私は球団代表兼編成本部長だったが、冒険するしかなかった。こっそりキューバに渡り、他球団や海外の人々の知恵も借りて、できることはすべてやった。こうした話は文藝春秋から出版した『記者は天国に行けない』にかなり書いたのでぜひ読んでほしい。

渡辺氏は「俺は最後の独裁者だ」と平然と語る人だった。その独裁の非を問うて記者会見して告発し、解任された。翌日から無一文。なかなか大変だった。ノンフィクション作家になったのは、自分の手の中にあるものを探すことから始めたからだ。

渡辺氏からは、記者会見をする時にいろいろ言われた。「破滅だ。破局だな、読売と全面戦争をするんだからな」と。言葉にできないほど苦労したが、後悔したことは1回もない。それは仕方ない。自分を貫くしかないわけだから。裁判は6年ほど続いた。

人間は、志があれば負けということはない。破滅することもないんだよ。渡辺氏が亡くなったとき、追悼文で彼にそう呼び掛けた。

『記者は天国に行けない』には自分の記者時代や同僚、若い記者たちの奮闘を記したが、その時に強く思ったのは、記者は真面目であればあるほど天国の道は遠いということだ。書くということは、いろいろな人を傷つけることでもあるからだ。私は企業社会の歪みを批判し、そのトップや関わった人々を叩いてきた。何人も企業トップや政治家を辞任や自死にも追い込んだ事件にも関わっている。

それを主導した人間が天国に行けるだろうか。新聞記者、雑誌記者の天国は、多分、別の所にあると思いたいが、さてどうだろうか。皆さんは行けると思いますか?本当に。

心に強く残る映画に「バケットリスト」がある。邦題は「最高の人生の見つけ方」で、がんで余命数カ月と宣告された二人の最後の姿が描かれている。一人が律儀に自動車整備工として生きたモーガン・フリーマン、もうひとりが病室で一緒になった大富豪のジャック・ニコルソン。この2人がバケットリストを元に最後の数カ月を鮮烈に生きていく。

バケットリストとは、死ぬまでにやりたいことのリストだ。本当に死ぬまでにやりたいリストをそれぞれが持っているだろうか。昔から私は言っているが、これはなかなか難しい。

この映画の中で出てくるのが古代エジプトの神話だ。死者が天国の門をくぐる時に二つ質問をされる。

一、お前は人生に喜びを見つけたか

二、お前の人生は他の者に幸せを与えたか

この二つの問いに、自分の中に答えを持つ者だけに天国の門が開くというのだ。果たしてこの主人公たちに天国の門が開いたか─というストーリーで、何回見てもうまくできた映画だと思う。この映画以外にも、私に「天国の門前」の自分を考えさせてくれた人がいる。

それは正木ひろしという古い弁護士で、尊敬に値する言論人でもある。

彼は、いわゆる冤罪弁護士として知られ、多くの人を救った。彼の名を一躍有名にしたのは1944年の「首なし事件」だ。茨城県の長倉炭鉱で警察官に殴り殺された冤罪被害者を救うために、墓場に行って遺体を掘り起こしたうえ、その証拠として首をちょん切ってバケツに入れ、満員の汽車で持ち帰ったという大変な意思の人だ。私は高校生の時にこの人を知って仰天し、当時宮崎県警の刑事だった父親に話し口論になって殴られたことがある。「そうそう警察に間違いはない」と父は言った。犯人の目を見れば分かるとも言う。

その後、私も駆け出しの青森で冤罪事件に遭遇し、警察の人々から同じことを何度も言われた。

私が何よりも正木を敬愛するのは、戦時中の抵抗人だったことだ。『近きより』という雑誌を出し続け、東条英機や軍人政治家らに批判を浴びせ続けている。よくぞ書いた、出版した。新聞記者や雑誌の編集者が筆を折って頭を垂れていた時に、命を張った人がいた。『近きより』は復刻版があるのでぜひ触れてほしい。私は遺族から残されていた現物をいただいて大事にしている。正木氏は敗戦の前年、次のような詩を書いている。

人々よ、現代に憤慨することなかれ

貴君等は何の権利があって憤慨するや

貴君等は、現代を良くするために

如何なる犠牲を払って来たか

貴君等は世界の文化に対し、どれだけの研究を遂げたか

貴君等は過去の日本に対し、どれだけの批判を為し、どれだけ実行に移したか

貴君等は自家の享楽生活に没頭し

公共には無関心ではなかったか

貴君等は、ただ漫然と良き時代の来ることを待っていたのではなかったか

貴君等はただ長い物には巻かれろ主義で

公共的のことには成るべく深入りしないように

ズルく構えていたのではなかったか

世の中に不公平が公然と行われていた時

貴君等は自分さえ損をしなければいいとは思わなかったか

公共の利益のために闘っている人達を

見殺しにはしなかったか

貴君等の身辺に人権蹂躙があっても

人のことだとは考えてはいなかったか

それらの総決算が今日現われて来たとて

貴君等に何の憤慨の権利があろうぞ

いまも通用するような詩ではないか。私は正木氏が天国の門の入り口にいて、「君は長いものに巻かれなかったか」と昇天した記者に問い掛けるのではないかと思う。戦っている人たちを見殺しにしなかったかと。その時に心の中に、堂々たる答えを持つ者だけが、天国の門をくぐれると私は信じている。

記者の世界の欠陥

スズメと記者は死ぬ場所が分からないとよく言われた。最近になって、記者はどこで死ぬのか分かってくるようになった。私は先輩やOBたちのところを取材に回っているからだ。私はOBを回っては、「取材したことは全部書きましたか」「書き残されていることがあったら私が書きますよ。権力者の秘密を墓場に持って行かせてはなりませんよ」と言って回っているのだ。私はものすごくメモを残している。もっとメモ魔もいたと思うが、家の中は足の踏み場もなく、倉庫まで借りている。ゴミみたいなものばかりだが、私は取材したことは、全部書いて消えよういう主義だ。ぜひ全て書いて消えてください。私は、知っていることを書かないクラブ記者は嫌いです。権力者や権力の秘密を口ではぼかして言うが、真実を書きはしないという人も嫌いだ。

書いたらそれは歴史として残る。私はわが祖父らの書いた日記や備忘録を大事にとっている。爺さんたちは私の中に思い出がある限りは生きている気がする。

よく思うのは記者世界の欠陥だ。幾つになっても記者世界には、何のために書いているのか分からない人が多い。私の所にも若い人や中堅社員、この本を書いてから会いに来てくれた人もいる。皆迷っている。今は新聞記者の衰退期にあるからなおさらだ。でも、古いメディアが衰退しても記者の衰退期じゃない。だからこそ、私なんかのところに飛び込み問うてくるのではないか。「どう生きるべきなのでしょうか」「何のために私たちは書いているのでしょうか」と。

もう一つの問題は、会社に流される人が多いのではないか。組織の中で独行ができない。独行とは、独り迷いながら進むこと。ここにいる人の多くが、めちゃくちゃに働かされただろう。いまは夜討ちや朝駆けが控え目だが、それで流される人が減ったか、といえばそんなことはないような気がする。取材にはいろんな形があるだろうが、若いうちに独行の覚悟を固め、真のチャレンジをしないと斬新なことは始まらない。

何のために記者として生きるかというと、私は、自分しか書けないこと、自分しか知らなかったことを書くためにここにいると思ってきた。企業の合併もそうだが、そのうちに発表されることを先んじて書くことは、仕事ではあっても、生きがいとはならないだろう。

私は自分しか知らないことを書くことが特ダネだと思う。自分がいなければ、明るみに出なかったことのために、たった一度の人生を使う。頑張る。そういう記者を育ててもらいたい。もう一つの記者世界の欠陥は、偉くなると書かないことだ。上司からそろそろそのポストからどけ、もう管理者に徹すべきで執筆しなくてもよろしい、と言われた記者がいる。断じて書き続けるべきだ。何のために苦しい訓練をしてきたのか。書かなければ駄目だ。

私は新聞記者から球団代表になった後も、文芸春秋とか、月刊現代、週刊ベースボールなどの雑誌に記事やコラムを書き続けた。書いていないと記者の感性と技術は劣化してくる。だから巨人軍という組織の中にいて、見聞きしたことをファンの人に伝えようと努力した。もちろん宣伝広報の意味合いもあるが、それだけではない。組織の内情を広くファンに伝えることで、自分に返ってくるものがあるし、スポーツ記者では書けない、自分しか書けないことがその中に詰まっている。選手、監督の生の言葉、球団幹部同士の会話、選手会とのやりとりなどたくさんあるだろう。

時々、企業から発信される文章や広報を見て、よくもこれだけ面白くなく書けるなと思う。

これは私の住んでいた団地内のことだが、あるとき、私も団地役員をさせられて団地の広報誌に自己紹介文を書かされた。すると家人がそれを読んで「恥ずかしい」と言い出した。「皆さんきちんと書いているのに、あなたの部分だけ浮き上がっていてすごく変だ」と言う。でも、それで私はいいと思った。それは僕だから。僕しか書けないことだから。

もしあなたが会社を卒業したとしたら、これから先、書く機会は自分で見つけるしかない。自分で見つけようと思えば何でもある。ブログでも「note」でも一億総発信の社会だ。現役記者だけが発信する時代から、OBも含めて素人も発信できる時代なので、その中で優れたものが反論とともに世に広まっていくだろう。

「技」の伝承を

もう一つ言いたいのは、部下に技の伝承をしてもらいたいことだ。一般企業に比べて、記者の世界ほど技の伝承がないところはない。若い人が話を聞いてくれないと言う人もいるが、そうだろうか。後輩に伝えようという意志が乏しく、皆が聞ける場を工夫していないからだ。今日はこんな素晴らしい場を設けていただいたが、工夫を重ねて自分の技はこうだ、我に秘術あり、と、自分で考えながら後輩に伝えてもらいたい。

例えばトヨタ自動車の歴代のチーフエンジニアはどうすれば売れる車を作れるか必死に考え、その秘訣を伝承したいと思っているし、デザイナーもそうだった。そんな人が昔からいて、「エンジニアの教訓」や私的な語録などいろんな書き物を内部的に残している。

そうした企業に比べ、記者たちはメディア論やコラム、自慢話の本は非常に書き残しているが、もっと具体的な真の特ダネ手法や文章技術について書いたものはひどく少なくないか。コンパッション(共感)を得る手法──これこそが特ダネにつながる──を語ったり、記者の中に特ダネを取れる人と取れない人がいるのはなぜだろうか、と感覚論ではなくて具体的に教える必要がある。

きょうはお年を重ねた人も多いので、私なりの再起術についてお話をしたい。私の場合、50歳で読売の中部社会部長に就き、54歳で異世界の球界に入り、61歳からノンフィクション作家としてやり直した。還暦からの再出発は大変だが、絶対できる。私みたいな人間ができるのだから。61歳からの略歴だが、62歳からずっと裁判、取材、執筆、この3点セット。63歳で『しんがり』を上梓して64歳で講談社ノンフィクション賞をいただくまでは、なかなか食えなかった。1カ月25万円を稼ぐことを目標にしたが、ずるく稼がずに収入を確保するのはなかなか難しい。

しかし、自分を卑下しなければ道は拓(ひら)ける。何とかなる。

68歳で『石つぶて』という刑事ノンフィクションを書いて大宅賞読者賞をいただき、73歳で『アトムの心臓』という本が『ディアファミリー』という映画になり、『記者は天国に行けない』で文芸春秋読者賞をいただいた。今、75歳で『もつれ雲』という小説を週刊ポストに連載している。

目標を考える─マンダラチャート

作家としてこれから先どうしたらいいのかと考えることが多かった。

大谷翔平のマンダラチャートという有名な目標達成シートがある。彼はドラフト1位で、8球団から1位指名してもらうには何が必要かと考えた。高校一年生の時だ。例えば「体作り」「スピード160㌔」「コントロール」「変化球」「キレ」「メンタル」「人間性」「運」、これが大事だと。では「運」はどうするか。一番大事なのはここだが、彼はこう考えた。「挨拶」「ゴミ拾い」「部屋掃除」「道具を大切にする」「審判さんへの態度」「プラス思考」「応援される人間になる」「本を読む」と。実に身近で平凡に見える。

では皆さんはどうでしたか。高校一年の時にここまではやっていないでしょう。ましてや高校生の時は態度は悪い、挨拶はしないし、ゴミは捨てる。こういう人が多かったのではないか。でも安心してください。

皆さんのお年では、もう、大谷メソッドを踏襲するにはもう遅いのです。私は実際にマンダラチャートを作ったが、アラウンド還暦(アラカン)の世代が作っても間に合わない。目標達成シートは10代、20代で書いて実践していたら意味があるが、アラカン世代が書いても間に合わないし、もうその必要はない。そこでこう考えたらどうですか。

私が辞めた時にある友達から「まず自分の棚卸しをしたらどうだ」と言われた。コンサルタントが必ず言う話で、リストラされた人がよく言われる。棚卸しとは、過去の自分を振り返り、経験して備えた技を整理することだが、そんな暇は私や皆さんにないでしょう。

それよりもこれがやりたい、こんな形で死にたいという大目標に力点を置いた方がいいのではないか。きょうや今週の小目標、それに数年単位の中目標を立てながら、肝心の大目標がない人が多い。大目標を考える際の一つの方法が先ほどお話したバケットリストだ。自分が今からやれることではなく、心からやりたいことをまず考えてバケットリストを作って自分に提示する。

自分の死亡記事を書こう

もう一つ皆さん方には、自分自身の死亡原稿、希望記事を自分で書くことをお勧めします。難しそうに見えるが簡単だ。死亡記事は最初に肩書があり、幾つで死んだのか、喪主、経歴がある。私は裁判で戦っている時に自分の死亡記事を作った。、読売新聞の若い人らがわが団地に入り込み、張り込んでいたりする。こんな志操の低い者たちに自分の死亡記事を書いてほしくないもんだ。それなら自分で書いておこうと思った。

私の死亡記事には79歳で死去と書いている。親父は78歳で死んだので、それまでは死ぬわけにはいかないと考えた。いくつで死ぬと思い定めると腹が座る。

そしてこの死亡記事に私の業績として、「感涙の名著多数」「桜の盆栽家としても知られた」と書いた。しかし、この二つは未達成だ。一心不乱に仕事をして、無名人(私は後列の人と呼んでいるが)の涙なしには読めない名著を書くのはこれからだ。桜の盆栽もこれから成長して、皆に「桜の盆栽名人」と言われるような人間になりたいのだ。

これらはまだたどり着いていないのでわが希望だ。願望だ。自分で書いた死亡記事に希望が込められているのだから、私はこれを「希望記事」だと思っている。このように死にたいという形の希望記事。自分に対する約束みたいなものだ。

あるとき、皆さんも作ってみませんかと言った。死ぬまでにやっておきたいこと。これはバケットリストと同じ発想だ。

ノリのいい人がいて、大学の講座で、私と同様に死亡記事を書いてもらって、それを新聞のようにまとめた。「幸せの新聞」があれば、世界に一つの死亡記事新聞、僕に言わせれば希望記事新聞ができた。

その中には、自分だけのワインを作りたいという人や、100万部刊行をめざす編集者もいた。希望記事の通りに、会社を辞めてトマトを作っている人もいる。僕は偉いと思ったが、自分がやりたいことを皆で死亡記事に書き、それを実現させながら死に立ち向かっていく。これが皆さんにお勧めする一つの方法だ。

何行でもいい、横でも縦でもいい。新聞の死亡記事は、その人をよく知らない人が書いたものだ。私が若い頃には資料をポーンと渡され「書いておけ」とか言われたものだ。人の死をコンベアに乗せて作業のように書くやり方は恥ずかしい。人の死をもてあそぶなと言いたい。

僕は駆け出しのころ、生意気なことばっかり言っていた。青森警察署の刑事課長から解剖室に連れて行かれ「人間の死というものはこういうものだ」と示され、その匂いと恐ろしさにヨロヨロとした。私みたいな人間が倒れそうになるのだから、やっぱり人の死というのは大変なことだ。これからはきちんと書こうという決意がそこで生まれる。刑事課長は私にそれを教えたかったのだ。人間の尊厳な死というのはこんなものだと。「俺たちはこれを毎日見ているんだ」と言われた。

面倒くさいを打ち砕け

ここからはアラカンの実践編だ。年を取って分かったことは、面倒くさいと呟(つぶや)く自分の存在だ。だから私は机の前に「面倒くさいと思う心を打ち砕け。それこそが老人の敵だ」と紙に書いて貼っている。コンセントをいじったり、何かを調べたり、初めての人に連絡したりすることが面倒くさくなる。これが敵だ。

私は裁判を巡って、親しい弁護士に「いろいろ資料を書かなくちゃいけないが、そんなことは分かりきったことじゃないか。面倒だ」と告げたことがある。すると、その弁護士は「違いますよ」と言う。「面倒なことは大事なことで、大事なことは面倒なことなんだよ」。私はそれを忘れないようにしようと思った。

年を取ると、家人に求めることも多くなる。仕事においてもそうだ。編集者に愚痴を言い、不平を言っているようでは始まらない。面倒くさいと思う心に、何とかして打ち勝とう、という気持ちが大事で、正直に言うと、私は自分を叱りながら日々を送っている。

これは私が再起した頃の話だが、自分の手の中にあるものから始めた。ゼロからは始まらない。過去に手掛けた刑事記事や国税事件、また山一証券の破綻を振り返って、その人々を改めて追跡した。

実は山一証券の破綻をめぐって、私は3冊の本を書いている。現役の時に1冊をまとめ、それから『しんがり』という本、『しんがり』のその後を追い掛けた『空あかり』。

『アトムの心臓』という本は事実を知ってから刊行までに23年を要している。あれも、悲劇と闘ったあの家族はどう生きているだろうかと思うところから始まっている。

2年前に『アトムの心臓』が映画化された。先ほど「幸せの新聞」の2001年の創刊の話をしたが、これはその新聞の記事の一つだった。心臓病を抱えた次女のために人工心臓を作ろうとした名古屋の町工場の経営者家族の話だ。ついに人工心臓には届かなかったが、日本で初めてカテーテルを開発して病床に届けた。私はこの話を本にして残したいと思ったが、どう取材しても足りないものがあった。それは彼女の人間性に触れる部分だった。

一言でいえば、それは娘さんの恋心、いや慕情というべきものかもしれない。すでに彼女は亡くなっていたので、どうしてもそこにたどり着けなかった。

一方で、自分の家族の秘めた思い出をペラペラと語る人は少ない。

「幸せの新聞」の記事から22年が過ぎた時、上京した経営者とそばを食べていた。ぽつりと父親が漏らした一言が本や映画のきっかけとなった。同じように時が人の胸を溶かし、真実を明かしてくれることも多いだろう。だからこそ、私は追い続け、書きなさい、と言っている。忘れずに耕すこと。それが大事だと私は思う。

私自身はいつもクワで耕している。本当はそういう話がいっぱいあるはずだ。皆さんがいっぱい書けば書くほど人の心を動かし、震わせるものができるだろうし、良い新聞、良い雑誌、良い本、良い映画に結び付くと私は思う。

集中して生きるためのテクニック

私は毎日、どんな日も最低8時間は机に向かう。朝4時から5時に起きて書き始める。松本清張は16時間、自分の弟子に、机の前に座っていろと言ったそうだ。机の前に独りじっと座って考えることこそが大事だ。だから、図書館関係の方がいたら申し訳ないが、私は正直に言うと、図書館の中では作家は生まれないと思う。喫茶店やファミレスで書く人もいるが、いずれもひとりで考え、独行している。

ひとりになることは、誰もまだ触ってないグラウンドに出るようなものだ。毎日行くことは面倒くさいが、それこそが大事なことで、それを毎日コツコツ、続ける。サラリーマン並みには働こうということだ。言葉を探す。私は今日使える言葉を探し、それを壁に張って、無能な自分を励ましている。そして普通の出来の人間でさえ、難問を解決した者は数え切れないほどいる。自分にできないことがあるものか、自分にできないことはない。こう自分に言い聞かせ、自分を激励することから一日を始める。

さらに、自分の中に会社を持つことも大事なような気がする。私は清武堂という架空の会社の社長だ。そして編集長であり、記者でもある。大目標と収入を考え、自分と対話して、継続的な作家活動をしようということだ。

自分を卑下せずに目標を立てよう

気分転換の方法を持つことも仕事術の一つだ。私の日課の一つは皿洗いを毎朝することだ。朝起きて、昨日の屈辱、嫌だったことを毎日皿洗いして流す。夏はいいが冬は寒い。お湯はなるべく使わない。そうやって皿は全部私が洗う。それから植物に水やりをしてラジオ体操に行き、川を見る。架空の笹舟に乗せて憂鬱や嫌なことを流すというのは私のやり方だ。寝る前に頭の上に川が流れていると考える。そこに笹舟を浮かべて、悩みを乗せる。悩みを乗せて次々に流していく。このようにして自分の悩みを引きずらない。そのうちに朝が来て、また茶碗を洗わなくちゃいけないので、それを繰り返している。

先ほど1年後の自分、5年後の自分とか、大目標、中目標、小目標と言った。小目標は今日やることだが、それをメモしてやっていく。やれないことも多いが、やれなくても自分を卑下しないでほしい。私は絶対に自分を卑下しない。自分を卑下しては唯一の味方を失う。10枚書けなかった、5枚仕上げなかった、3枚仕上げなかった、何もしなかったという時でも、「俺はダメなやつだな」という後に「なんちゃってね」と言ってみたり、「俺は本当に能力がない」と独り言を言ってしまったら、「と言ってみたけど、どっこい俺はそうじゃない」と言って気分を変える。絶対に卑下しない。こうやって生きてきた。

記者がネタを抜かれることなどは、もともと大したことではない。本当のネタは抜かれない。なぜかというと、自分が書かなければ分からないネタを追っているわけだから。抜かれるようなネタというのはいつか明るみに出るのだから、それはそれでいいではないか。こうやって自分と人を育てなくてはいけない。

今日若い人がここにいるのならば、いずれ後輩にそれを告げてほしい。私と同じようなお年の方もいるだろうから、そういう人は、自分が今までに経験したことを書いてみましょう。どこに書いても結構だ。そのためには、発表する機会を必ず持つという強い意志が必要だ。何月何日までに書く。このように自分の目標を掲げ、そして2年後に本にする、これが中目標だ。大目標はご自身で考えて下さい。小目標は毎日コツコツやることだ。

こうして私は生きてきて、なぜこんなことを繰り返すかというと、やっているうちに自分が思っていたよりも少しだけ目標を超えていく。成長の秘訣だと思うからだ。だからコツコツやる。そして、(自分の死亡記事で書いた)年齢の壁を超えて生きていたら、それは余禄の人生だと思ってほしい。

「まだ卑下せずに頑張ってるな」と、そういう姿を見せられるように頑張りたい。(本稿は4月28日に行われた特別講演の内容を要約、一部加筆した)

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